1-30 マスオ物語外伝 〜タイコの告白〜
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377 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 01:57:29 ID:Xz1Pl48e
【マスオ物語外伝 〜タイコの告白〜】
私、箱入り娘だったんです。
フフ、自分で言うのも可笑しいですね。でも親の立場になった今思い返しても、やはり過保護な両親でした。
一人娘でしたので、大事に大事にされてきました。
人はその成長に応じて、一人で出来る事の範囲が広がってゆくものですが、それが私の場合は明らかに同年代の子より遅れていました。
それは、本来私がすべき事を、親がいつのまにか済ませてしまうことに少なからず原因があったように思います。
とにかく、私は手を汚さずに育ちました。そしてその弊害に自らも気がつかないほど、私の周囲は両親の築いた強固な防壁で覆われていたんです。
でも、そんな少なくとも両親にとっては善意の情報操作をもってしても、遂に私は私自信が著しく世間に疎いということを高校生になったあたりから気がつき始めていました。難しく言うと、自我というものでしょうか。
もちろん両親のことは大好きでしたが、その両親への愛情を幼少の頃と少しも変わらず胸に抱いたまま、
それでも人より遅れて芽生えた反骨精神もまた、私の心の中で控えめに、しかし確実に育っていきました。
だから大学で自転車部に入ったのは、自分自信の精神的成長をのぞむ気持ち半分、両親に対するつまらない意地が半分だったんでしょうね。
でも、若い時分でしたから、その時は後者の気持ちには自分自身でも気がついていなかったような気がします。
とにかく、日々が新鮮で精神的成長という目的に対する手ごたえを感じていました。
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378 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 01:59:00 ID:Xz1Pl48e
私の大学の自転車部は、部の中で異なる方向性を持った二つのグループに暗に分かれていました。
ひとつは、競技性の強いスポーツ指向のグループ。
もうひとつは、サイクリングなどのレジャー性を重視するグループ。
そのふたつのグループが、とくに敬遠するでもなく自然に混在していました。
もちろん私は後者のグループです。
そんなふたつのグループを持った自転車部でしたが、年に一度、グループの境無く皆が楽しみにしている恒例のイベントがありました。
夏の北海道への自転車旅行です。
これは、入部してから知ったイベントでした。実はもう、不安で不安で仕方が無かったんです。
だって、北海道ですよ?地図で見たってとっても東京から遠いですよね。なんたって一番上のほうなんですから。
親元から離れて暮らした経験と言えば修学旅行程度だった私は、とっても心配でした。そしてとっても困り果てました。
春に入部してからそれまでに部で走った一番遠い所といえば湘南程度だった私は、いきなりそんな遠いところに文字通り本当に自分の力で漕ぎ走らなければいけないという未経験の一大事の前に、すっかり心配だけで胸がいっぱいになってしまいました。
それでも、そもそも部に入った理由というのが他に頼りがちな自分自身の改革を望んでのことだったわけですから、北海道は遠いし、大変そうだし、不安だから・・・という理由で参加をボイコットする事はひどく自己矛盾しているように思われました。
だから、もう本当に、私としてはそれまでの19年ほどの人生の中で使ったことがないほどの勇気と決断力を振り絞って、参加を決断したわけです。
・・・でも、7月に入るころには、やっぱり心配で心配で、それが募ってお腹を痛くしたこともありましたけど(笑)
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379 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 02:00:28 ID:Xz1Pl48e
遠いと思われた北海道ですが、東京からの距離はさほど問題ではありませんでした。
なぜなら、東京発のフェリーで苫小牧まで一気に移動したからです。
先輩や友人との楽しい船旅でしたので、それまでの心配はすっかり取り越し苦労だと思っていたくらいです。
・・・ところがです。私の想像を大きく超えていたものがあったんです。それは、北海道の広さでした。
私はその北海道の広さに、すっかり翻弄される羽目に陥ってしまったわけです。
東京生まれの東京育ちの私にとって、その広さは全く想像の域をはみ出していました。
それまでの、頼りない私にさえ、若さに任せれば東京23区の中でも埼玉寄りの北区あたりから上野、神田、新橋、品川・・・と抜けて、神奈川あたりまで・・・要は東京を縦断するなんてことは半日程度もあれば可能な事でした。
そして、「都道府県」の広さに対する私の認識はそんな程度のものだったんです。笑わないで下さい。箱入り娘だったんですから。
先に申し上げた「心配」の原因だって、「東京から遠い」という多少的外れな理由だったんです。
とにかく、北海道は広かったです。
部には様々なペースの人間が所属してました。とにかく速さを追い求める屈強な男性から、ある意味では私以上の世間知らずのお嬢様まで、それはもう異種混合チームのようでしたので、おのずから走行ペースだって様々です。
私は毎日、いつだってビリでした。その日の宿泊場所であるキャンプ場に着いた時、もうほとんど夕食の準備が出来ていると言う事は珍しくありませんでいた。
それでも、最初の数日は少しだけ悔しくって意地を張ってペダルを漕いでたんです。それでも、すぐにそんなふうに走るのはすぐに止めにしました。
なぜなら、北海道の想像以上の広大さには少なからず辟易させられてはいましたが、それ以上に北の大地の山々や草原や澄んだ海と空の雄大な景色、それに頬をなでる風の心地よさにあてられて、マイペースでもただ走っている事が気持ちよく思えてきたからです。
それに気がついてから、私は私とペースのあう友人と、ゆっくりでもとにかく完走して東京に帰ろうと思って走り続けました。
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380 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 02:01:55 ID:Xz1Pl48e
その日は、屈斜路湖畔のキャンプ場を出発して、釧路に向かうルートでした。
足に自信のある部員は、その途中で迂回して摩周湖に立ち寄るルートを選択していました。
なぜ「足に自信のある」という条件がつくのかというと、摩周湖を臨む展望台に辿り着くためには、急な峠道を登らなくてはいけなかったからです。
私は摩周湖を見るのを始めから諦めていました。だってそうでしょう。毎日、一番遅れてキャンプ場につく私は、少なからず皆に迷惑を掛けているように思っていましたから。
皆、迷惑だというような顔はしていませんでしたし、おそらくは心根もその通りだったのだと信じていますが、それでも例えば夕食の準備をすべき新入部員の私が、毎日のようにそれを結果的に人任せにしてしまっていましたし、そんな事もあって自分の内の問題として摩周湖に寄り道をすることが良しと思えなかったんです。
ただ、やはりとても心残りでした。なぜなら、摩周湖は大学に入り自転車部に所属する遥か以前より、私の憧れの場所でしたから。
写真やテレビで見る、おおよそ日本とは思えない神秘的で美しいその湖を、私は昔から見てみたいと思っておりました。
だから、摩周岳の西麗を素通りする時、私はとても悔しく、そしてとても悲しく、自転車を進ませながらも涙が出そうになりました・・・。
・・・いえ、結果的にこの旅で思いがけない事から摩周湖を見る夢は叶ったんです。それは、本当に偶然が
偶然を重ねた上で奇跡的に叶った夢だったんです・・・。それは、この旅行での・・・いえ、それまでの私の人生の中で、最も思い出深い出来事でした・・・。
前置きがすっかり長くなってしまいましたが、これから書き記す事が、無理だと諦めていた摩周湖を見る事が出来た顛末と、それ以上に心に残るあの人との束の間の出会いのお話です・・・。
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381 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 02:03:34 ID:Xz1Pl48e
その日も例の如く、同じペースで走る事の出来る友人と、マイペースで釧路へ向かっていました。
友人は、前の晩にキャンプ場の公衆電話から実家に電話を入れた際、同居するおばあちゃんの具合が少し悪いとの連絡をうけていました。
おばあちゃん子の友人は、その日の朝からいてもたってもいられないという様子でした
が、弟子屈の町を抜ける際に心配が高じたのか、再び実家に連絡を取りたいと公衆電話に止まりました。
同走する私のペースが乱れるのを悪いと思ったのでしょう。すぐに追いつくからと、彼女は私に先に進むように言いました。
私も無下に断わる理由も無く、それどころか、私がいるとゆっくり話をすることが出来ないだろうと思い、友人はすぐに追いついて来てくれると勝手に予想し、一人釧路に向けて走り出したのです。
・・・道を間違ったのは、それからすぐのことでした・・・。
私はすっかり釧路に向かっていると疑いもせず、ペダルを漕いでいました。
そのうちに、少しの不安が湧き起こりましたが、それは一向に追いついてこない友人に対してであって、道を間違えたことには少しも思い及びませんでした。
その時、私は弟子屈から北にある釧路市に向かっているつもりで、実はひたすらに東の標津町のほうに向かって進んでいたんです。
どれほどの方向音痴だとお思いでしょう。
・・・笑わないで下さい。箱入り娘だったんですから・・・。
確かにおかしい、と思ったのは友人と別れてから一時間も経った頃でしょうか。
いえ、ここに至っても、私に追いついてこない友人の事を「おかしい」と思ったんです。
そして、不意に道端に止まろうとした時です。自転車の後輪にフニャフニャという嫌な感じを覚えたんです。
自転車経験の少ない私でも、「あっ!パンクだ!」と直感しました。
自転車を降りて、後輪に何が刺さっているのかという事を確認している少しの間に、空気はすっかり抜けてしまいました。
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382 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 02:04:37 ID:Xz1Pl48e
さぁ困ったぞ、と私は腕組みをしてしまいました。
仮にも自転車部でしたので、パンク修理はもちろん教わっておりましたが、いざ一人で作業を行うとなると、まったく自信なんてありませんでした。
生まれ付き、楽観的なきらいのある私は、友人を待つきっかけが出来たなどと当初は甘く考えていました。
友人が追いついたら、一緒にこの苦難を乗り越えようなどとも考えていました。
そんな風に、自分を納得させてすぐに作業に取り掛からないほど、私はパンク修理にまるで自信がなかったんです。
パンクした当初、私がどれほど呑気に構えていたのかといえば、道端に座り込んで空がきれいだなぁとか、遠くの牧草地に見える馬の親子が可愛いなぁなんて考えていたり、お父さんから借りたライカというカメラで周囲の風景を撮っていたりしたことからもわかると思います。
そうして30分もした頃、もちろん一向に追いついてこない友人と、身動きの取れなくなった自分の状況に対して初めてリアリティを伴った不安が湧き起こってきました。
さっきまで、心地よさの一要素だったはずの静寂が急に怖くなってきました。車もほとんど通りません。
私は、その恐怖心に近い状態まで膨らんできた不安感に打ち勝とうとしたのか、無意識のうちに諦めていたパンク修理に取り掛かっていました。
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383 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/17(木) 02:05:55 ID:Xz1Pl48e
荷物の中からパンク修理セットを出して、自転車を横にしました。タイヤレバーをタイヤとホイールの間に差し込もうとしましたが、慣れない女手でなかなか上手くいくはずもありません。
あまり無理な作業を行うと余計にチューブを傷めてしまうということは知ってましたが、その適度な力具合が解からず、作業は一向に進みません
でした。
そのうち、空が夕暮れを帯びてきました。夜が来る・・・。私の心臓はこれまでに無いほど速く拍動しました。
どうしよう、どうしようと焦る気持ちは、慣れない作業をなおのこと不確実にしました。
私は本当に狼狽していました。美しいと思っていた北海道の広大な原野が、そのまま私の命の脅威となっているような心持ちでした。
・・・その時、私は半ベソをかいていたと思います。
そして、あの人の到着があと5分も遅れていたら、私はその場で声を上げて泣いていたと思います・・・。
焦り、作業に没頭する私の背後にオートバイが停まったことには気がつきませんでした。
「大丈夫ですかー?」
その声で、初めて私は我に返ったんです。・・・ヘルメットの奥に丸メガネをかけた細身の男性が立っていました・・・。
394 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 00:58:47 ID:XbmaHPJL
【マスオ物語外伝 〜タイコの告白〜 中編】
私は、オートバイに乗る男性に対する偏見を、もしかしたら少なからず持っていたかもしれませんでした。
ライダーは粗野で不良なのだというイメージさえありました。
だから最初は、彼の登場自体をパンクの次に訪れた不意のアクシデントとして受け止めていたくらいです。
ところがその人がヘルメットを脱いだ時、私の一方的な誤解は解けました。
なぜなら、その人はあんまりに優しい目をしていたからでした。
少し神経質そうで、それでいて人に圧迫感をまるで与えない彼の物腰は、すぐに私の警戒心を取り払いました。
私は正直にパンク修理が出来ない事を伝えると、彼は私に代わって作業を行ってくれました。
顔は優しそうでもやはり大きく力強い男性の手は、確実に作業をこなしていきます。
私はまだ修理作業が終わる前から、「あぁ良かった、たすかった」と安堵しました。
大袈裟かも知れませんが、それでも命の不安すら感じていた私にとって、
その人は映画で見たスティーブ・マックィーンやジェームス・ディーンよりもおおいに頼れるヒーローに思えました。
・・・その日の夕方に私の危機を救ってくれたヒーローの名は、フグタ マスオさんといいました・・・
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395 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:00:05 ID:XbmaHPJL
パンクの修理が終わると、もう一つの驚くべき事実を私は耳にしました。
フグタさん・・・いえ、もう初めてお会いした時から今までずっと下の名前で呼ばせて頂いていますから
マスオさんと記させて頂きますが・・・マスオさんに釧路に向かっていたはずの私が、
実は釧路に向かってなどいなかったということを教えてもらいました・・・。
一難さってまた一難です。マスオさんはこの時間から自転車で釧路に向かうのは無理だと言います。
私はもう頭が混乱してしまって、どうしたらよいか解からなくなってしまい「困ったなぁ」と呟きました。
そんな時、またマスオさんに手を差し伸べてもらったんです。
マスオさんは、困り果てた未熟者の旅人を放ってはおけなかったんでしょう。
近くのキャンプ場で御一緒しませんか?と私に提案して下さいました。
パンク修理だけでなく、キャンプだって満足に一人で出来なかった私にとって、それは天の導きのようにありがたい一言でした。
・・・そんな風に少なくとも私にとっては、マスオさんとの夢のように楽しく、そして儚い数日が始まりました。
今にして思えば、私はなんて世間知らずの無防備な女だったのだろうと思います。
なんの疑いも無く初めて会った男性に着いて行き、彼のテントのぴったり傍らで眠ったのですから。
本当に、あの時出逢えたのがマスオさんで良かったと思います。
当時の私の世間知らずから来た暴走の数々を、マスオさんがおかしな方向に誤解していなかったかどうかだけは心残りです・・・。
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396 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:01:58 ID:XbmaHPJL
部にも迷子になった連絡が取れ、数々のハプニングをマスオさんに助けてもらって安心しきった私は彼にすっかり心を許していました。
だから、先に記したような自分の過保護な生い立ちと、それに対する自己改革への思いをいつしか語っていました・・・。
そんな事、誰かに話して聞かせたことなどありませんでした。
そして、マスオさんは黙ってそれを聞いてくれました。
それでも連日の足手まといぶりに加えその日の大失態ですから、話しているうちにすっかり弱気になってしまったんですね。
私は、弱音を口にしたんです。
なんと言ったかはハッキリと覚えてませんが、自分はやはり弱い人間なのかもしれない、というようなことだったと思います。
・・・そうしたら、それまで優しい瞳で黙って私の言う事を聞いてくれていたマスオさんが、真剣に私の弱気を嗜めてくれたんです。
あなたはそれでいいんだ、あなたは自信をもっていいんだ、と真剣に背中を押してくれたんです。
こんな事を正面から言ってくれる人は初めてでした。嬉しくて涙がでました。
そしてその時もう既に、大学の仲間とはぐれてしまった自分の状況のことなどすっかり忘れてしまっていました。
その、マスオさんと出会った夕方からその夜のエピソードだけでも、彼は私の心に確かな足跡を残してくれたはずでした。
それだけでも、それまでの人生で最も心に残る出会いであり、大切な思い出にできるはずでした。
でも、マスオさんが私にくれた思い出はそんな程度じゃ済みませんでした。
マスオさんは大きな翼で私の夢を叶えてくれたんです。
それは、翌日の早朝でした。開陽台の夜明けの景色の雄大さに感動する私に、マスオさんは摩周湖は見たのかと聞いてきたんです。
私は見ていないと言いました。
そして、本当は見たかったのだけれど、到底無理だったので諦めましたという内容も伝えたんです。
そうしたら、マスオさんはごくあっさりと私を摩周湖に連れて行ってあげると言ってくれたのです。私には、すぐには
その意味が解かりませんでした。
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397 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:03:33 ID:XbmaHPJL
マスオさんは、大きな翼を持っていました・・・。オートバイです。
もちろんオートバイの後ろに乗るのは初めてでした。マスオさんは私にヘルメットを貸してくれました。
ヘルメットからちょっぴり男の人の香りがして、私は少しドキドキしました。
マスオさんは丁寧に、どこそこを掴んで乗りなさいという事も教えてくれました。
正直言うと、あまりに突然の展開に、私は少し半信半疑でした。
あれほど強く憧れて、そして涙と失意のうちに諦めた摩周湖に今すぐに連れて行ってくれると言うんです。
マスオさんの後ろに乗っても私にはその実感があまりありませんでした。
ところがオートバイが動き出したとき、その二つのタイヤの乗り物がとても大きな大きな可能性を持った乗り物であることを実感しました。
後ろに跨っただけでも、とても大きくそしてとても重そうなことは判りました。
けど、エンジンの力がタイヤを回した時、そのあまりの力強さに驚きを隠せませんでした。私は無意識のうちに「すごい、すごい」と子供のように声を
あげて喜んでいたように思います。
本当にオートバイは「翼」でした。速く、力強く、たくましく、北海道の早朝の原野をオートバイは駆け抜けました。
そして、その力強さ溢れるオートバイのスピードと力を実感した時、私は確実に憧れの摩周湖へ向かっているんだという希望が心の中に溢れてきました。
私はいつのまにかマスオさんの背中に抱きついていました。ここで打ち明けますが・・・、私は出発前に聞いたちゃんとした乗り方を忘れてしまったわけではありませんでした・・・。
ただ、衝動的に目の前にある頼り甲斐ある広い背中にしがみ付きたくなったからです。
私の心に何かが芽生え出した瞬間だったのかも知れません。
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398 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:04:34 ID:XbmaHPJL
そして、私があれほどまでに憧れていた摩周湖に到着しました。摩周湖は私の想像をはるかに上回る美しさ
でした・・・。
私の頬を涙が伝いました。それは目の前の湖の美しさや、長年の願いが叶ったことだけが理由ではありませんでした。
私は、私をここに連れてきてくれた心優しい人の事を思ったとき、どうしても流れる涙を止める事が出来なかったのです。
「マスオさん、私の夢を叶えてくれてありがとうございます。」
私の意識を追い抜いて、素直な心が言葉となって思いがけず溢れ出ました。・・・それは、あまりに遅く訪れた
私の初恋でした・・・。
私は、硫黄山や屈斜路湖畔をマスオさんと歩いたとき、確かに幸せを感じていました。
たった数時間のデートでしたが、私にとってこんなに楽しい時間はそれまで過ごした事がありませんでした。
それは決して刺激的なものではありませんでしたが、ゆったりと流れる彼との時間はむしろ少女時代に思い描いていた恋愛のイメージそのままでした。まるで夢のような時間でした・・・。
こんなに短い時間の間に、マスオさんはたくさんの思い出とぬくもりを私にくれたんです。
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399 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:05:44 ID:XbmaHPJL
・・・でも、それが本当に夢のようにいつかは醒めなければならない幻想であることに、私は気がついていました。
マスオさんの気持ちを確かめるのが怖くて、私は私の気持ちをマスオさんに伝えることはついに叶いませんでした。
当時の時代的に今ほどの開放的な恋愛が一般的ではなかった以上に、私達はあまりに恋愛に対して不慣れでそして臆病ものでした。
・・・私達と言いましたが・・・、これは決して自惚れでは無く今にして思えばきっとマスオさんも私に好意を抱いてくれていたはずだと、そう女の勘が知らせています(笑)
もっと私に勇気があれば・・・私の人生は今と違うものとなっていたのでしょうか?
・・・いえ、実は私、マスオさんと居るほんの数日の間に、たったの一度だけ勇気を振り絞った瞬間があったんです。
それは、マスオさんと二人きりで過ごした最後の夜でした・・・。翌日には開陽台で部の仲間と合流する事が決まっていたので、私はその時が自分の気持ちを伝えられる最後の機会だと感じていました。
その夜、眠る為にそれぞれのテントに入って少ししてから、私は思い切って隣のテントに居るマスオさんに質問をしたんです。
「マスオさんは、恋人とかいるんですか?」と・・・。
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400 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:07:10 ID:XbmaHPJL
それをきっかけに私は自分の気持ちを最終的には伝えようと、決死の覚悟で紡ぎ出した言葉でした。・・・でも、マスオさんからは返答はありませんでした・・・。きっと眠ってしまっていたんだと思います。
ドジな私は声を掛けるタイミングをすっかり間違っていたんでしょう・・・。
なんだか急に哀しくなって、ちょっぴり泣きながら私も眠りにつきました・・・。
そして、永久に私はハッキリとマスオさんに自分の気持ちを伝える機会を失ってしまったのです。
その翌々日の早朝、私とマスオさんは開陽台でお別れしました。
私は、屈斜路湖畔で買ったニポポ人形に伝えられなかった思いを込めてマスオさんに渡すだけで精一杯でした・・・。
私の初恋は、結果的に失恋に終わりました。
実は翌年の夏・・・1985年だったと思いますが、その夏も私は北海道を自転車で訪れています。
もう、自転車に乗る事よりもほとんどマスオさんとの再会を夢見ての参加でした。
・・・でも、結局マスオさんに会うことは出来ませんでした。
そして、おそらく永遠にマスオさんに再会することは出来ないんだろうな、と私は思っていました・・・。
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401 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:09:21 ID:XbmaHPJL
だから、数年後に今の夫と結婚を決めたとき、夫が学生時代に居候していた世田谷の伯父の家に挨拶に行った際、
そこでマスオさんと突然の再会をしたときは、心臓が止まりそうなほどに驚きました。
その家で、マスオさんは奥さんと新しい人生を既に歩いていたんです・・・。
お互いに知った関係でありながら、もちろんそれと知らない周囲の人に紹介された私達。
私は思わず、あっと声を上げそうになりましたが、マスオさんは他の誰にも気が付かれない様に咄嗟に私に目配せをしてその場を収めました・・・。
私はその時、マスオさんと私の間に永久に超えることの出来ない厚い壁が出来ていることを実感したんです。
もちろん私は夫を愛して結婚したのですから、予想外のマスオさんとの再会がその後の私にことさらに何かを訴えかける材料になりはしませんでした。
結婚式の準備、そして私のお腹には新しい命が宿っていた為、様々な結婚へ向けての現実的な作業の中で、
学生時代のおぼろげなロマンスを改めて思い起こしている閑など無かったんでしょう。
それに私はむしろこの先、あの優しく暖かいマスオさんと親戚として近しい関係で居られることに対して、
無邪気に喜んでいたくらいでした。
再会したマスオさんは、もうお父さんでした。会社勤めをしていて、オートバイは降りたようでした。
マスオさんがオートバイを降りた顛末については、長くなるので省かせてください。
そして、それは妻であるサザエさんとの出会いに密接に関係していることでした。
その後生まれた私の息子が、一才、二才と成長していく過程で、イソノ家とそこに住むフグタさん夫妻とは
家族同然の付き合いをしていきました。
私の子と、マスオさんの子が仲むつまじく遊ぶ様子を、私はとても幸せな気持ちで眺めていたものです。
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402 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:10:43 ID:XbmaHPJL
ただ、イソノ家でマスオさんと再会した時から、私の胸にはなにかしらのつかえがありました。
・・・それはマスオさんの様子でした。
もともと北海道で出会った時、マスオさんはとても大人しい人でしたが、
その内に秘めた優しさと暖かさを感じる事ができました。
そんなマスオさんの雰囲気は、再開した後も基本的には同様だったのですが、
それでも私はそこになにかしらの違和感を感じていました。
家族の前では妙に明るく振舞っていると思えば、ひとりで居るマスオさんは酷く寂しげな顔をしていました。
常にお酒に頼っているわけでは無いのですが、酩酊して家に帰ることも少なくなかったようですし、
なによりタバコの量が多いのは、北海道でのマスオさんの様子と明らかに食い違っているように思いました。
極端に言うならば、裏と表がマスオさんの様子に表れていました。
奥さんであるサザエさんを含め、家族はそのことに気がついていないようでしたが、私にはハッキリとそれが見て取れました。
それは、年を経てまたは社会人になって落ち着いた、という一般的な人の変化とは違うように私には思えました。
なんと言えばよいのでしょうか・・・。マスオさんの中に、なにか黒い影が潜んでいるような気がしました。
それでも前述の通り、結婚準備やその後の子育てに忙殺されていた私は、
それ以上深くマスオさんの様子に注意を払えないまま数年が過ぎていったんです。
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403 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:12:08 ID:XbmaHPJL
突然ですが、私の悩みを聞いてください。・・・私にだって悩みがあるんです・・・。それは、夫の事です。
まず誤解して欲しく無いのですが、私は夫のナミノを愛しています。そして当然、子を愛しています。
ですから苦しいのです。愛情が無いのであれば、ここまで苦しくなんてなりません。
何が苦しいのかというと・・・。その・・・、夫がよく解からないんです・・・。
あの人は明るくて快活で人懐っこい愛すべき人格の持ち主です。私も何度、彼の笑顔に救われたか解かりません。
底抜けに明るく、一切の悩みは無いように見えます。
いえ、私は仮にも妻ですので断言させて頂きますが、夫には人生に根ざした深い悩みは一切無いと言えます。
そりゃ、お小遣いの額だの、編集者として担当しているイササカ先生の原稿の進み具合だのという、
日々の生活の些末なことに対する不満や心配はその時に応じてあるんでしょうが、
夫の人格と生き方に裏打ちされた継続的な苦悩などはまるで皆無だと思います。
いえ、それは決していけないことではなく、むしろ誰にとっても多かれ少なかれ憧れの対象となるべき性格なんでしょう・・・。
でも、本人にとっては良いことでも、その周りにいる人間にとっては良い事で無いかも知れません。
現に私はそんな夫の人並み外れた陽気さやデリカシーの無さに、彼の真意をいつまでたっても見つけられないでいるんです。
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404 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:14:30 ID:XbmaHPJL
要は夫の人格がよく解からないのです。
人は泣いたり笑ったり怒ったりといった感情を時に表面に表す事で
周囲の人間に自分の思いや自分という人間そのものを知らせるのだと思います。
映画なんかのお話の世界では、人格的につかみ所の無い人を、寡黙だったり無表情だったりといった
キャラクターとして表現する事が多くありますが、夫はそれとまったく逆方向の陽の感情のみで日々を生きているので、
結局のところ精神的な起伏という面では寡黙だったり無表情だったりという人と同じように平坦であり、
そして解かり辛い性格なのです。
夫はいつもニコニコ笑っているので、日々の生活のイライラから来るケンカをしたことなどほとんどありませんが、
そのかわりに夫のデリカシーの無さが原因で私がへそを曲げた事などは幾度かあります。
その度に夫はゴメンゴメンと謝るのですが、その謝罪の言葉に中身が無いのです。
いえ、夫が打算ではなく真剣に謝っているのはもちろん良くわかるのですが、それはただ一生懸命謝っているだけなのです。
私がどうして怒ったのかという事に対して思考が向く事はありません。
だから、似たような別のことでまた私が不機嫌になったりもするんです。
夫の中には、まるで他人が存在していないようなのです。
夫も私を愛して結婚してくれたのでしょうが、おそらく彼の中には私を愛している自分がいたとしても、
一人間として、妻としての私というものが存在していないことでしょう・・・。
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405 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:16:15 ID:XbmaHPJL
ここまで書くと、まるで私は夫を憎んでいるようにも思われ兼ねませんが、何度も言うように私は夫を愛しております。
ただ、そのとらえどころの無い彼の屈託のなさが辛いのです。
悩もうにも、その悩みの対象を私は完全に掴み切れていないため、それが出口の無い空虚なトンネルを歩くようでとても辛いのです。
人知れず霞のような正体不明の悩みに直面したとき、息子はもう4歳になっていました。
2歳頃に最もひどかった反抗期もすっかりなりを潜め、少し子育ても楽になってきました。
結婚後から続いた忙しさがそんな風に一段落して、自分を見つめなおす時間が出来たからこそ、
そんな正体の解からない悩みが芽生えてきたのかも知れません。
・・・そしてその頃もう一人、気になりだした人がいました・・・。マスオさんでした・・・。
親戚として再会したあの日以来感じていたマスオさんの内に棲む「影」の正体を、私はひどく気になりだしていました。
その時の私にはなぜマスオさんをそんなに気にするのか解からなかったのですが、
それが気になる余り眠れなくなった夜もあったくらいでした。
・・・そして、何故その時期にそんなにマスオさんの事が気になり始めたかというと、
それは子育ての一段落という私の事情意外にもあったんです・・・。
私は、マスオさんの奥さんであるサザエさんの秘密を、ふとしたことから知ってしまったのでした・・・。
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406 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:22:47 ID:wY9NcPf+
それは横須賀に住む旧友の家に呼ばれて、遊びに出かけた帰りのことでした。
友人の家をおいとました私は、もう一人の友人と駅に向かって繁華街を歩いていたんです。
時間は21時を少し過ぎていたでしょうか。
その繁華街の一角で、サザエさんを見たんです・・・。呼びかけようとした私は、すぐにそれを止めました。
なぜならサザエさんの隣にはマスオさんではない男性がいたからです・・・。
サザエさんは親しげにその男性と腕組みをして楽しそうに歩いていました。
私は驚きで、隣にいた男性の顔を見るのも忘れてしまったくらいでした。
それは単なる知り合いを超えた艶かしい何かを感じさせるのに充分の光景でした・・・。
私は彼女がマスオさんを裏切っている事を直感していました。
確かに東京からみた横須賀は、人目を避けるのに適当な場所のように思えました。
横浜でしたら買い物や食事に来た知り合いに会ってしまう可能性もありますが、三浦半島の袋小路である横須賀は
特別な理由も無い限り、少なくともサザエさんのことを知る近所の人が訪れる可能性も少ない為、
人目を忍ぶには最適だったかもしれません。
いえ・・・、そんな事はどうでもよいのです。私は震えていました。その光景への驚きの為ではありません。
・・・怒りでです。
社会的に言えば、私はこの状況に対して怒りを感じる立場では無かったはずですが、
何故か私の心はそれまで感じたことの無い言いようの無い怒りの感情に支配されていました。
マスオさんの優しい笑顔と暖かさを思うと、悔しくてたまりませんでした・・・。
そんな私を尻目に、罪深き男女はネオンと雑踏の中に消えて見えなくなりました。
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407 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:24:27 ID:wY9NcPf+
彼女当人をその場で捕まえて叱責しなかったのは正解でした。
そんな事をしていたら、今頃マスオさんは私達の前から姿を消さなければならなかったことでしょう・・・。
私は怒りの感情を理性で抑え込み、その代わりにイソノ家へ普段を装い電話をしました。
中学生になったカツオ君が、「姉さんは友達と会いに埼玉へ行っている」と教えてくれました。
やはり私が横須賀でみたのは紛れも無く「密会」だったんです。
その日から、私はなおのことマスオさんのことを意識するようになっていました・・・。
傍で見る限り、マスオさんは妻の裏切りに気が付いていない様にも見えました。
私は、夫への形の無い悩みと共に、誰にも言えないフグタ夫妻の秘密を心の奥に隠しながら
しばらくの間、日常生活を続けていました。
ある日、公園でタラちゃんと遊ぶマスオさんに会いました。息子とタラちゃんを遊ばせ、
私達はベンチでその様子を見つめながらごく普通の親戚らしい会話を交わしていました。
再会した頃から感じていた「影」の存在を差し引いても、その日のマスオさんは少し元気が無いように見えました。
それでも私の言葉に笑顔をみせて答えてくれるものですから、それがむしろ痛々しく私の目には写りました。
私はやはりマスオさんの心に影を落とす正体について知りたいと思っていました。
私はどうしてもマスオさんの事が気になって仕方がないんです。
・・・その理由はその後、ある思いがけない人から諭されて気が付いたのですが、それは後述いたします。
とにかく、私はマスオさんの憂いを自分に可能な事であれば取り払ってあげたいとまで思っていました。
その為にはどうしても憂いの原因を知る事が必要だったんです。
私はマスオさんが私と初めて会った時と何か違う事を知りながら、まるでカマをかけるように言いました。
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408 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/19(土) 01:26:04 ID:wY9NcPf+
「マスオさんは昔から変わりませんね。優しいところなんて特に。」
マスオさんは遊ぶ子供たちなのか、それとももっと遠くの空なのか、わからない場所を見つめながら言いました。
「・・・そうですか?僕は変わったと思ってます。自分が解からなくって疲れるくらいです。
出来る事ならあの頃に戻りたいくらいです・・・。」
少し寂しげな笑顔のマスオさんから出てきた力無い言葉は、まるで隣にいる私に向けられていないように聞こえました。
あの頃、という言葉がいつを指し示しているのかも判然としませんでした・・・。
少なくとも私と過ごした開陽台を思って言った言葉ではないように思えました。
マスオさんも言った後ではっと我に返り、自分の言葉があんまりだと思ったのでしょう。
いつも皆に見せる笑顔と言葉に戻って、すこしおどけながら前言を撤回しました。
・・・でも、私はその言葉が思いがけずマスオさんの心底から出てきたものだと確信しました。
確かにマスオさんの心の中に影を落とす過去があると実感しました。・・・でも、それが何なのかまではもちろん解かりませんでした。
私はマスオさんの得体の知れないが確かに存在する陰鬱な過去と、サザエさんの隠し事を思い心が沈みました。
そして、ますます彼の事が気になりだしていったんです。
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435 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:12:01 ID:7VkuSjDZ
【マスオ物語外伝 〜タイコの告白〜 後編】
確かにマスオさんの心の奥底には得体の知れない影が横たわっている・・・。
私はその日の公園のやり取りで、その思いを確信としました。
そして、私の心は痛みました。マスオさんが後ろ暗い影に縛られながら生きている事が私にはとても悲しいことでした。
そして追い打ちを掛けるようなサザエさんの裏切りを思うと、もうマスオさんの笑顔を見ることすら辛いのでした。
過去と妻の裏切りに挟まれた孤独なマスオさんを救いたくても救えなかった私は、
たとえ彼の憂いの理由が何であろうとも構わないから、その寂しい背中を摩周湖を見に行った時に
オートバイの上でそうしたように抱きしめたい衝動にすらかられました。
そして、もちろんそんなことが許されるはずも無い親戚という関係に、初めて苛立ちを感じたんです。
私はそれから、非常に不安定な心持ちで生活を続けていました。
それはもちろんマスオさんのことだけでなく、捉えどころの無い夫への悩みも含まれていたのです。
しばらくは眠れない日々が続きました。
サザエさんの事もあったし、息子も幼稚園に入りましたのでイソノ家に足を運ぶ回数も自然少なくなっていきました。
もちろんサザエさんに会う機会は往々にしてありましたが、彼女の様子は私と初めて会った時と何も変わっていませんでした。
むしろぎこちなくなったのは私のほうだったような気がします。
そして、夫と同じように明るく元気で快活な陽の気性をもつ彼女が、実は人に言えない夜の顔を持っていると知ったとき、
私はますます夫という人間もわからなくなっていったんです。
それまでの人生の中で、これほどに多くの悩みが心の中で渦をまいたことはありませんでした。
しかもその悩みの原因のどれもが、私が動いて解決の出来る類の問題では無かったのも私のストレスの一因となりました。
私は始めて、人間が少し怖いと感じていたんです。
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436 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:12:53 ID:7VkuSjDZ
消すことの出来ない胸の苦しさの中から、どうせなら私はマスオさんの事を積極的に考えるようになりました。
それは学生時代のほのかな思い出も同時に思い出せるから少しは心が安らぐということが理由なのか、
直接私に関係の無いことだから、夫のことよりは実感としての苦しみが少ないという、
やや利己的な考えが働いたからかどうかは解かりません。
ただ、確実にいえることはマスオさんが苦しみから解放されれば、
また私も少なからず幸せな心持ちになれるだろうということでした。
その微かな救いを求めて、私はマスオさんの過去を知ろうと思いましたが、なかなかそれは難しいことでした。
でも、私はそのマスオさんの心の深部にせまる僅かな手がかりを見つけたんです。
それはイソノ家とフグタ家、そして我が家で日光にハイキングに行った時のことでした。
その三家が集まると10人の大グループになるのですが、もう大きくなったカツオ君とワカメちゃんは
友人との約束を優先させたので、参加したのは8人でした。
8人乗りの大きなレンタカーを借り、マスオさんの運転で私達は日光に向かったのですが、
その途中の休憩で立ち寄った明智平の駐車場で、私は学生時代と同じ、ただ優しいマスオさんの表情を見たんです。
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438 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:13:45 ID:7VkuSjDZ
お土産屋で買い物を済ませた私は、トイレに行った夫と息子より先に車に戻りました。
その時、マスオさんは運転席で、開けた窓から何かを見つめていました。
その時の表情は、なんの憂いも感じない、とても優しく暖かく爽やかなものでした。
・・・彼の視線の先にあったのはたくさんのオートバイでした。
彼は周囲の誰にも見せない何色にも染まっていない透明な瞳で、それらのオートバイと談笑するライダー達を見ていたんです。
その時、初めて私は意識的にマスオさんもまた、ライダーであった事を思い出しました。
そして、北海道で見たマスオさんの快活とした笑顔と一緒に私の記憶に思い浮かぶ乗り物は、
確かにオートバイであることに気がつきました・・・。
およそ十年振りに再会したあの頃のマスオさんの表情を見たとき、
の人生にとってオートバイが実はとても重要な位置付けにあるのではないかと直感したんです・・・。
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439 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:14:28 ID:7VkuSjDZ
それから少しもしないうちに、私は思いがけずにマスオさんの「影」の正体を知ることになったんです。
その日、私は幼稚園から帰った息子と二人で街に買い物に出かけました。
用を済ませると、息子がチョコレートパフェが食べたいといい始めたんです。
私も少し歩きつかれたので、喫茶店に入ることにしました。暑い真夏の盛りでした。
私達はしばしの涼を求めてその店に入ったんです。
息子はその店のチョコレートパフェがいたくお気に入りでした。
偏食気味の息子が良く食べるくらいですから、たしかにその店は美味しい人気のお店でした。
ですから、お昼を少し過ぎていたのですが店内はあいにく満席でした。
息子をなだめて出ようか、それとも待とうか迷った時、店内から不意に私を呼ぶ声が聞こえました。
「タイコさ〜ん。」
「あっ!マスオさん、こんにちは。」
「良かったら、ここ相席しませんか?」
窓際の日当たりの良い席から私に向かって手を振っていたのはマスオさんでした。
スーツ姿で仕事中らしかったマスオさんの向かいには、やはりスーツ姿の男性が座っていました。
「おっ!イクラちゃん、しばらく会わないうちにずいぶん大きくなったなぁ〜。」
私はいつもその人と会うとき、申し訳ないなと思いつつどうしてもそこに目が行ってしまうのですが・・・、
大きな唇が特徴的なマスオさんの会社の同僚のアナゴさんという方でした。
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440 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:15:16 ID:7VkuSjDZ
「奥さん、どうもお久しぶりです。フグタ君がどうしてもサボりたいって言うもんでしてね。」
「おいっ!お茶にしようって言ったのはキミじゃないか!」
マスオさんは、自分のコーヒーカップを持ちアナゴさんの隣に移動しました。
私もアナゴさんとは初めてお会いするわけでは無かったのですが、それまでも特にまとまった会話などはしたことはありませんでした。
それでも、アナゴさんは「良い人」というオーラを全身に纏っているような人でしたので、
特にこれといった気を使う必要も無く、私達はとりとめのない世間話をしていました。
すぐに私は気が付きました。アナゴさんと一緒にいるマスオさんは屈託無く良く笑うのです。
彼らの麻雀やらゴルフやらといった話を聞いている限り、二人は会社の同僚以上の良き友人関係であることが感じられました。
そうしてふと、私はアナゴさんについて知っている数少ない情報の中から、
この人がマスオさんと学生時代から親交があるということを思い出したのです。
・・・この人なら、もしかしたらマスオさんの過去について何か知っているかもしれないと思いました。
息子のチョコレートパフェが運ばれてきたのと同時に、マスオさんのポケットベルが鳴りました。
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441 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:15:58 ID:7VkuSjDZ
「あ〜、部長からだ。」
「おいおい〜、また突発業務か?勘弁してくれよぉ。今日は早く帰りたかったんだけどなぁ。」
「怪しいなぁ、最近週末になればアナゴ君は早く帰りたがるじゃないか。ま、電話してくるよ。」
「おぅ。」
マスオさんは店内の公衆電話に向かいました。まだ携帯電話が普及していなかった時代、
彼らはこうして出先で連絡を取り合っていたんです。
私は公衆電話に向かうマスオさんの背中を見送り、少し笑ってアナゴさんに言いました。
・・・この時、私はマスオさんが席を外した事を千載一遇のチャンスと思っていました。
そして、はじめからマスオさんの「影」を掴むという目的を持ってアナゴさんに話しかけたんです。
「本当に仲がよろしいですね。」
そんな私の言葉に、アナゴさんは照れくさそうに頭を掻きながら答えました。
「いやぁ。大学時代からの腐れ縁です。」
「東京に来てからお知り合いに?」
「えぇ。大学一年の頃からですからねぇ。もう十年になりますよ。」
「じゃあ、アナゴさんも早稲田?」
「いえ学校は違うんですよ。まぁ、下宿が近所だったし、ちょっとした縁もありましてね・・・。」
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442 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:17:26 ID:7VkuSjDZ
そこまで言うと、さっきまで気持ちよい笑顔だったアナゴさんの顔が、少し曇ったように見えました。
やっぱり何かある・・・。その時代にマスオさんの秘密が隠されている・・・。
そして、この人はその全てを知っているんだ・・・。私は確信を得ました。
私は普段全くと言っていいほど使うことの無い意地悪を、目の前のアナゴさんにぶつけようと思ったんです。
今、機会を逃すとまたしばらく、マスオさんの影の正体に近づけないような気がしていました。
私は私の確信に満ちた予想を遠慮なくアナゴさんにぶつけたんです。
「それってもしかして、オートバイ・・・ですか?」
アナゴさんは、少し驚いたような顔をしました。
「・・・よくご存知で。」
「共通のご趣味だったんですね。」
「・・・趣味というか・・・まぁ、そんなところですかね・・・。」
「今はお乗りになってませんの?」
「・・・まぁ、はい・・・。」
それきりアナゴさんは、急に口ごもったようになり、もう砂糖とミルクをいれてあってかき混ぜる
必要の無いコーヒーをスプーンでかき混ぜ始めました。
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444 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:18:25 ID:7VkuSjDZ
おぼろげながら、マスオさん、そして同時にアナゴさんの背負った過去を知った今にして思えば、
その時の私はとても辛い言葉でずけずけとアナゴさんの心に立ち入った嫌な女でした。
でも、私だって必死でした。
常識的に不自然にならない程度の言い回しで、それでもマスオさんの核心を引き出そうと必死でした。
私としては、「オートバイ」という言葉を使ったのは、マスオさんとアナゴさんの若い頃の関係性を知ろうとしただけでなく、
「オートバイ」という乗り物がマスオさんに落とす影になにかしら繋がっているような気がしての事ですから、
そこから先も私はその一点でアナゴさんを攻め落とそうと考えていました。
だから、私はとっておきの私の秘密を持ち出してアナゴさんを会話に引き込もうと思いました。
「実は私、マスオさんのオートバイの後ろに乗せてもらったことがあるんですよ。」
「え!?そりゃあ、最近のことですか?」
「いいえ、学生の頃です。もちろん名前は解りませんが、赤と黒の大きなオートバイだったなぁ。」
「・・・ニンジャ・・・か・・・」
そう呟いたアナゴさんの言葉に反応したのは、大人しくチョコレートパフェを食べていた息子でした。
「にんじゃ!にんじゃ!しゅりけんだー!しゅっしゅっ!!」
「うわぁ、やられたぁ!」
アナゴさんは、おどけて息子を相手にしながらも、過去の記憶のどこかにひっかかったようで、私に問いかけてきました。
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445 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:19:23 ID:7VkuSjDZ
「もしかして、北海道で・・・ですか?」
「えぇ・・・。秘密ですよ、秘密です。私、主人と会う以前に、北海道でマスオさんと会っていたんです。」
私は、「秘密」という言葉を効果的に使ったつもりでした。
暗に引き換え条件のような言い回しをすることでアナゴさんの知っている「秘密」も手中にしようとしたんです。
「いえ、誤解なさらないで。秘密と言っても若い頃のことで、なんだかお互いに気恥ずかしい気がするっていうだけの理由で
誰にも言っていないだけなんです。特に何も・・・。」
私は、何も言われていないうちから自分で切り出したことなのに勝手に言い訳をしました。
もしかしたら、頬も赤くなっていたかも知れません。アナゴさんは少し笑いました。
「84年ですねたしか。そういえば開陽台でフグタ君は少し怪しかったような覚えがありますよ。
ハハハ、確かにあの頃の彼ならあなたが言い訳をするまでもなく女性を相手に滅多なこたぁ無いでしょうね。」
・・・あの頃、という言葉が気になりました・・・。
私が始めてマスオさんに出会った1984年からそれ以降のどこかの時期で、マスオさんが変化する何かがあったのだという確かな証拠を、その
アナゴさんの何気ない言葉の片隅に見つけました。
・・・今しかない。この時をおいて他に、マスオさんの「影」を掴むチャンスは無い・・・。
そう思った私は、アナゴさんに気が付かれないように小さく深呼吸をしてから、まっすぐ核心に踏み込む問い掛けをしました。
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446 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:22:29 ID:AjZy/Ag5
「マスオさんって、若い頃・・・私と会った後に、何かあったんでしょうか?」
その私の質問を、今度は特に驚いた素振りも無くアナゴさんは聞いていました。
・・・そうきたか・・・とでも言いたげな表情でした。
それでも、アナゴさんはすぐに核心について返答することを拒み、そのかわりに質問で返してきました。
「・・・どうしてです?」
それは二通りにもとれる反問でした。
「フグタ君の何処を見てそう思うのか?」という意味と、
「なぜ、既に家庭を持つあなたが、他の男の過去について知ろうとするのか?」という二つの意味にとれたんです。
後者については、前述の通り私自身がマスオさんの過去を気にする理由について、そもそも自分でも
うまく説明がつかなかったし、それについて言い訳のような事を言うのは返って不自然に思えたので、
私は無視を決め込むことにしました。
そうして、前者の意味あいについてのみ答えることにしたのです。
「マスオさんは、初めて会ったときも、そして今も変わらず優しくて暖かい人です。
・・・いえ、昔といっても学生時代にマスオさんと一緒にいた時間なんてほんの3日程度だった私が
こんな事を言うのも変だと思いますが・・・。それでも何か昔と違うような気がするんです。
ふとした時に、ゾッとするくらい寂しそうな瞳をしているマスオさんを見るときがあるんです。
そして、昔と変わらないように見えるマスオさんの優しい振る舞いが、今は妙に痛々しく見えるときがあるんです。」
私は捲くし立てるように、ほとんど一息でそう言いました。
決死の覚悟で私の疑問の核心をアナゴさんにぶつけたんです。
アナゴさんは最後まで黙って聞いていましたが、少し考えてからこう言いました。
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447 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:23:33 ID:AjZy/Ag5
「奥さん。・・・それは、少なからず受け取る側の心の問題にも繋がってるんじゃあないでしょうかねぇ?」
アナゴさんにそう言われて、不意に夫の事が頭に浮かびました。
そして、とらえどころの無い夫のことでとらえどころの無い悩みを抱いている私の胸のうちを
アナゴさんに見透かされたような気がしました。
飄々として、いつもとぼけているように見えるアナゴさんは、意外にも手強い相手でした。
私は返すべき言葉を失って、伏目がちにアナゴさんから視線を外しました。
でも、自滅したはずの私に助け舟を出してくれたのは他でもない、アナゴさんでした。
真剣に問い掛けた私に対しての義理なのか、それともその後に言葉を失った私に
何かしらの事情を感じて同情して下さったのかは解りませんが・・・。アナゴさんは真面目な顔で私に言いました。
「いや、失礼しました。奥さんの質問が意外に的を得ているもんでしてね。
思わず話しをそらそうとしてしまいましたよ。」
そうして、アナゴさんはコーヒーを一口飲み、小さく溜息とも深呼吸とも付かない息をしてから私に言いました。
「奥さん。あなたのおっしゃる事は正しい。確かに、彼は学生時代に一つの悲しい経験をしている。
それが彼の、おそらくほとんどの人が気が付かない憂いの部分に大きな影響を与えていることは間違いありません。
・・・そして、私も全く同じことが原因で人間が変わってしまった男の一人です。
僕らはその暗い過去の部分を共有している。
僕らは、奥さんが先ほどおっしゃったように仲がよいとよく人に言われる。
それは僕らの、切り離したくても切り離せない重い鎖の両端に縛り付けられているという一種の一体感が、
人にそう思わせる理由なのかも知れませんねぇ・・・。」
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449 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:24:30 ID:AjZy/Ag5
アナゴさんのゆっくりとした言葉を、私は黙って聞いていました。
「奥さん。覚悟はおありですか?なんとなく気が付くことと、ハッキリと知るということとはその重みが違います。
その事に関してのフグタ君の過去というのは、そのまま私の過去とも言えますので、
その気になればほとんどの事実を話す事だって私には出来ます。
・・・ただ、やはりフグタ君の過去の一切を勝手にあなたにお話しする権利など私にはありません。
だから、大まかな輪郭だけしかお話しすることは出来ませんが・・・
それでも、奥さんの心に少なからず僕らの暗い影が落ちるかも知れませんよ?
それでも、お聞きになる覚悟はおありですか?」
私は自分でこの問題に首を突っ込んでおきながら、それを聞いて急に怖くなりました。
まさに今、今まで知ろうと思いながら知れなかった、マスオさんに暗い影を落とす過去を知れるところまで来ているのに、
いざその段階になってみた時、私は逃げ出したいような衝動に駆られたのです。
だからといって、ここまで聞いてしまった以上、逃げ出すわけにもいきませんでした。
私はその恐怖心をかき消すために、わざと冗談めかした返答をしました。
「私、主人が小説の編集者をやってますから少しだけわかりますが、アナゴさんって文学者か哲学者
みたいな物言いをされるんですね。」
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450 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:25:32 ID:AjZy/Ag5
アナゴさんは、私の意外な返事に少しだけ目を丸くして言いました。
「バイクに入れ込んでた時期だって、乗っていないときはアルバイトか書籍あさりかって生活だったんですよ。
物書きになる夢なんて早々に捨てましたけどね。こんな顔で、意外でしょう?
それに、ほらなんとかを持てば人は哲学者になるっていうじゃありませんか。」
私とアナゴさんは顔を見合わせて少し笑いました。
そして、私は決意とともにアナゴさんにお願いをしました。
「・・・聞かせて下さい、マスオさんの過去のこと。知らずにいる方が、なぜか心が痛むんです。」
「解りました、話しましょう・・・。ただ、先ほども言った通り、私の一存ではあまり深くは話せませんよ。
それに・・・奥さんだから話すんです。理由は後から述べますが、いいですか?奥さんだから話すんです。」
私はただひとつ、こくりと頷きました。アナゴさんは、その重い口を開きました。
「そんなややこしい話でも、壮大なストーリーでもありません。ただ、人の命に関わった事です。
奥さんにとっちゃ拍子抜けしてしまうかも知れませんが、本当に単純な話なんです。
・・・僕ら二人にとって兄貴のように慕っていたバイク仲間が、その頃・・・85年の夏に死んだんです・・・。
ただ、それだけの話です・・・。」
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452 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:26:50 ID:AjZy/Ag5
ただ、それだけ・・・。アナゴさんはそう表現しましたが、私にとっては思いがけず重い事実でした。
私は、心のどこかで友情や恋愛といった人間関係に起因している事だと思っていたのです。
だから、それが人の命に関わっていた事を知ったとき、頭が少しくらりとしました。
「その人の死については、あまり詳しく聞かないで下さい。
その人が死んだ瞬間の事に関して言うならば、私はフグタ君よりも深く癒しようも無い傷を心に刻んでいる・・・。
目を閉じて思い浮かべるだけでも、目の前が血の色に染まるような記憶です・・・。」
オートバイに乗らない私でも、オートバイがある意味でとても危険な乗り物であるという認識はありました。
オートバイ仲間の死・・・。それだけで、当時に何が起こったのかということは充分に理解できました。
「人間というものは、死というものを解っているようで解っていない気がします。
命は地球より重いとか命より大事なものは無いなんて言葉は常識のように語られていますが、
もちろんその意味自体に誤りはないんでしょう。
でもね、その言葉を使う人の背景が空虚なことがほとんどです・・・。
年老いて天寿をまっとうできれば、むしろそれは幸せな死なんでしょうが、身近な人のあまりに早く、
そして突然の残酷な死を目の前にした時、人は言葉と思考をいっぺんに失います・・・。
そして、僕らはその時、時間が止まったんです・・・。上を向いて歩けなくなったんです・・・。」
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454 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:27:57 ID:AjZy/Ag5
アナゴさんは、言葉を選びながらゆっくりと話し続けました。
「あぁ、上を向いて歩けなくなったというのは当時のフグタ君の言葉でしてね。
真っ直ぐ前を向いて進む気力は失われて、それでいて立ち止まって手持ちぶたさになるのも余計に辛い・・・。
だから、苦しくてもとぼとぼとどこかに向けて歩くしかない・・・。
そんな僕らの当時の気持ちを象徴する言葉だったから、よく覚えているんです。」
長電話のマスオさんは一向に戻っては来ませんでした。
息子は少し前から眠そうに左右に揺れながらチョコレートパフェを食べていましたが、ついに私に寄りかかり眠り出しました。
眠る我が子の頭を私の膝のうえに移し、私はアナゴさんの言葉を聞きつづけました。
「僕らは自分たちを責めました。少なくとも、僕たちがその人の目の前に現れなければ
その人は死なずに済んだんですからね・・・。」
私はアナゴさんが過去を語りだしてから初めて口を挟みました。
マスオさんとアナゴさんを慰めようと、思いがけずに出た言葉でした。
「・・・でも、そんな事を言っては辛いでしょう・・・。
人はその先にある悲劇を願ったり知っていたりする上で出会うわけじゃないんですから・・・。」
「・・・そうなんです。その通りですよ。でもね、その時の僕たちはそのあまりの衝撃の前に神経が衰弱していた。
とてもまともな判断をすることが出来なかった。それに、若かったから自分自身の心の処し方も知らなかった。
でも、確かに奥さんのおっしゃるとおり、それだけでは・・・自分を責めているだけではどうにも辛すぎるんですよ。
だから、心の隅で自分を責めつつも、もう反対側の隅では世間一般を責め始めていたんです。」
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455 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:28:49 ID:AjZy/Ag5
「世間一般?」
アナゴさんは、表通りの車の渋滞を一瞥したかと思うと話を進めました。
「そうだなぁ・・・。広い意味での世の中という意味では無いんです。
少数派である二輪車に対して、道路上で理不尽な常識を振りかざす四輪車・・・という意味合いでの「世間一般」です。
これは、バイクに乗らない方には実感として理解できないかも知れませんし、
この話の中では理解いただけなくても一向に問題ありません。
それに、今にして思えばやっぱり若くて愚かな考えです。
でも、とにかく自分を責めていないと辛いし、さりとてそれだけでもまた別の意味で辛いから、
自分達の外の世界をも呪い始めたんです。」
私には、オートバイに乗る人の気持ちがにわかに理解できたとは言えませんでしたが、
それでも当時の二人が苦悩の渦の中に居たことだけは充分に理解できました。
「上を向いて歩けなくなった僕らが、それでも何処へ向かうとも知れず進むための存在がバイクでした。
奥さんには矛盾して感じられるかもしれない。そもそもの悲劇の根本に救いを求めるなんてね・・・。
それでも、僕らにはそれしか無かった。バイクしか無かったんです。」
アナゴさんは公衆電話の方を見て、マスオさんがまだ戻ってこなそうな事を確認すると、再び言葉を続けました。
「そして、僕らは荒れていったんです・・・。
救いであったはずのバイクも、時によってはその荒れを増幅させる存在となりました。
まぁ今にして思えば、荒れていたからこそその時期を乗り越えられたとも言えるかもしれませんが、
とにかくその頃の僕らは荒んだ、刹那的な生き方をしていました・・・。」
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456 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:29:56 ID:AjZy/Ag5
私は、彼らのその当時の「荒んだ生き方」というものの内容までを聞く気にはなれませんでした。
原因が解かっただけでもう充分でした。その先の詳細を知ることがとても怖かったのです。
だから、私はアナゴさんに言葉を止めて欲しいと思っていたのですが、アナゴさんはそんな私の気持ちを察したように言いました。
「その荒れた生き方がどんなものだったのかまでは僕には言えません。
フグタ君の名誉にだって関わるかも知れませんからね。
・・・それに奥さんだってそこまで知りたいわけでは無いのでしょう?」
私は頷きました。そして、胸が重くなりました。・・・とても、私がどうにかできる問題では無かったのです。
マスオさんの過去に横たわる「影」を出来る事なら取り除いてあげたくてようやく知ったその事実は、
とても私が手を出せるような問題では無かったんです。私は自分の無力を恨みました。
そして、アナゴさんに対して正直に自分の気持ちを述べました。
「・・・ごめんなさい・・・無理に聞き出してしまったみたいで。
もっと申し訳ないのは、それを聞いてしまったところで私はマスオさんを救ってはあげられないということです・・・。
私は無力です・・・。」
アナゴさんは過去を話していたそれまでの硬い表情から、いつもの柔らかい表情に戻って言いました。
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458 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:31:02 ID:AjZy/Ag5
「・・・しかし驚きましたよ。奥さん、あなたはフグタ君のことを実によく解かってらっしゃる。
あの頃の出来事を知らない人で、フグタ君の心の「影」の存在に気が付いたのはあなただけです。
ことによると、サザエさんよりもフグタ君のことをよく解かってらっしゃる。」
私の言葉に直接返答をせず、アナゴさんはそう言いました。そして言葉を続けました。
「僕があなたに僕らの過去をお話したのは他でもない。奥さんがフグタ君の救いになりうると思ったからです。」
「・・・なぜ?」
「人は、その過去を受け止めて包んでくれる存在が必要なんですよ。
僕の場合は幸いに・・・妻が、その過去に亡くなった人の忘れ形見みたいなものです。
全てを知っていて、それで何も言わずに僕と人生を共に歩いてくれている。
もしかしたら、僕に気がつかれない様に軌道修正してくれているのかも知れませんがね。
僕は妻の存在があるからこうして日々を平気な顔をして生きていられるのかも知れません。
まぁ、上州名物カカア天下ですがね。」
そして再びアナゴさんはすこし沈痛な面持ちになって言いました。
「ところがフグタ君の場合は・・・ちょっとね。サザエさんは彼の過去を知らない。それにあんな性格でしょう?
なかなか人のデリケートな部分に気が付きにくい性格なんでしょうな。
フグタ君だって自分から言い出そうとはしないし、言ったところでどこまで重く受け止めてもらえるかも怪しいでしょうね。」
私は思わず、脳裏に明るく快活でだからこそ捉えどころの無い夫の顔を思い浮かべました・・・。
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460 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:32:07 ID:AjZy/Ag5
「それにね、今のフグタ君の状況はちとややこしい事になっていましてね・・・。
サザエさんに彼の救いを求めるような状況ではないんですよ・・・。」
それを聞いた時、横須賀で見たサザエさんの事が頭に突然浮かび、私の体はビクッと動きました。
私の膝で揺らされて、テーブルの上のコーヒーカップがカチャッと鳴りました。
「・・・奥さん、もしかして知ってらしゃる・・・?」
私は下を向いたまま、「偶然見たんです・・・。」と小声で呟やきました。
そして、ふと何故アナゴさんがそれを知っているのかを考えた時、私は驚いて顔を上げました。
そしてアナゴさんに聞きました。
「まさか・・・マスオさんも?」
アナゴさんは、露骨に大きな溜息をつきました。そして、相当に哀しい目をして言いました。
「・・・はい、彼は知ってしまっている・・・。彼は・・・フグタ君は全て知っていながら、普段どおりに暮らしている。
いつも通り笑い、いつも通り会社に行き、いつも通り家に戻る・・・。
彼は言いました。僕はそれでも妻を愛しているんだ、と。
彼女のパワーを貰って僕は生きてこれた。とても感謝している。
だから、今回の事だってそのパワーが少し間違った方向に行っただけなんだから、僕は許すんだ。・・・ってね。」
「・・・そんな。」
「えぇ、僕もその話を知った時は怒りました。お人好しも大概にしろってね。
いえ、お恥かしい話なんですがね、彼の胸倉に掴みかかりましたよ。
でも彼は言うんです。きっと僕のせいなんだからって・・・。
・・・たぶん彼は怖いんです。
早くに父親を亡くして母子家庭だった彼が、思いがけず手に入れた賑やかで幸せな家庭を失うのが怖いんでしょうね。
自分さえ我慢していれば・・・そう思っているんだと思います。」
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463 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:35:07 ID:7VkuSjDZ
私はもう流れ出す涙を止める事が出来ませんでした。ポーチからハンカチを取り出して人目はばからず目頭をおさえました。
アナゴさんはそんな私を前にして、少し慌てたようでした。
「ですから、奥さん。あなたにお願いするんです。どうか、フグタ君を照らす光になってあげて欲しいと・・・。」
「・・・でも、私どうしたらよいのか・・・。私なんかにはどうにもできません・・・。」
アナゴさんは、優しい口調に戻って言いました。
「奥さん、今まで誰にも話してこなかった僕らの過去を何故あなたにお話したのか、理由を説明します。
いえ、お気を悪くしないでいただきたい。僕はこれは真実だと思ってます。
・・・奥さん、あなたはフグタ君にずっと恋をしているんだと思います。」
「そんな・・・私・・・。」
「いえ、解かっております。僕が妻を愛するように奥さんが旦那さんのことを愛しておられるのも。
しかし、そういうこととは少し次元の違う話なんです。
おそらく奥さんの心にとってフグタ君は、ご主人や息子さんとも異なる大切な一本の幹になっているはずです。
学生時代から大切に少しずつ育ててきた確かな心の拠り所のはずです・・・。」
少しクサイですかね、とアナゴさんは顔を赤らめました。
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464 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:35:54 ID:7VkuSjDZ
「あなたはフグタ君の様子につぶさに気が付いた。そして、その心の内を知りたいと思った。
知らないと居ても立ってもいられなかった。剥きになって僕からそれを聞き出そうとした。
そしてそれを知ったとき、あなたは泣いた・・・。
そんな感情を表す言葉を、僕は「恋」以外に知りません。
あなたは常識的な人間として、幸せに結婚生活を続けながら自分でも気が付かない心の深い深いところで、
静かに穏やかにフグタ君を想っているんです。」
私はアナゴさんの言葉を否定しませんでした・・・。
いえ、むしろ自分でも気が付かなかったもやもやとした部分を明るみにしてくれたその言葉を
私は清清しい思いで聞いていました。
・・・そう、私はマスオさんにずっと恋をしていたのかもしれませんでした・・・。
「そしてね、これはあなたがフグタ君のバイクの後ろに乗った事があると教えてくれた時に
僕の頭の中で繋がった事なんですがね、たぶんフグタ君も今僕があなたの恋心を説明したのと
全く同じような気持ちをあなたに対して持っているんじゃあないでしょうか?」
「えっ!?」
「こう見えても、僕は彼と十年来の非常に濃い付き合いをしている。
彼のことは大体よく解かっているつもりです。
だから、あなたとフグタ君が学生時代の北海道で出会っていたと知って、ふと思い返しました。
確かにフグタ君はあなたとあなた以外の女性に対する様子が違う。
さっき、ここに入って来たあなたを見つけた時だって、彼の目はすっかり輝いていた。
・・・断言します。
あいつもまた、あなたに対する恋心を大学時代の北海道に時間を止めたまま持ち続けています。」
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466 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:36:51 ID:7VkuSjDZ
さっきの私の恋心を見抜かれた時と異なり、あまりに予想外だったそのアナゴさんの言葉を、
私はにわかに信じがたく感じました。
そして、アナゴさんは突然かしこまったように、テーブルに両手を置いて私に頭を下げました。
「奥さん、どうかフグタ君を救ってあげて下さい。もはやそれが出来るのは世界中に奥さんしかいないんです。」
私はそのアナゴさんの姿が、いつかのテレビドラマで見た「娘さんを僕に下さい」といったような姿にそっくりで、
それが少し滑稽だったので苦笑しながら言いました。
「頭を上げてください、アナゴさん。・・・でも私、どうしたらいいんでしょうか・・・?」
「いえ、特に何もする必要は無いと思います。」
「え?」
「今までどおりのあなたでいいと思います。そして、近くで見守っていて欲しいんです。
それで充分だと思います。
それでは奥さんは納得しないかも知れませんが、少なくとも奥さんはフグタ君の過去を知ったわけで、
これまでの得体の知れない距離感が少なからず縮まったはずです。
奥さんがフグタ君の苦悩を知ったことは決して無駄ではない方向に動くと思います。」
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467 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:37:43 ID:7VkuSjDZ
「・・・そうでしょうか?」
「奥さん、人は光一つ無い夜道を歩く事なんて出来ません。
でも、月明かりさえあれば、ゆっくりでも前に向かって歩いていけるものです。
さっき、僕は奥さんに彼の光になって欲しいとお願いしましたが、
そんな月明かりのような存在になっていただきたいのです。
彼の闇を優しくほのかに照らし導く存在になって頂きたいのです。」
言い終わってから、「やっぱりクサいですな」とアナゴさんは頭を掻きました。
「私に出来るでしょうか?」
「・・・僕じゃあダメなんです。同じ傷を受けたもの同士ではダメなんです。
傷の舐めあいでは、ともすればより深い闇に落ちてゆくスパイラルに陥りかねません・・・。
実際、あの頃の僕達はそうでした・・・。
どうか、どうか、一人真っ暗な底にいるあいつの事を救ってあげて下さい・・・。」
私はアナゴさんが、心の底からフグタさんの事を理解し、そして心配しているのだという事を感じました。
その様子に、「親友」という本来使えばチープになってしまう言葉がしっかりと存在していると感じました。
そして私は、自分に出来る事ならマスオさんを救ってあげたいという望みを持っていたことを思い出しました。
私にも出来る事がある・・・、私にしか出来ない事がある・・・。
そう思ったとき、打算も躊躇も無く私はアナゴさんに答えていました。
短くても、確かな意思に基づいた返答でした・・・。
「・・・わかりました。」
「・・・ありがとうございます。なにとぞ・・・。」
・・・長かった会話は、その短い二言で終わりを告げました。
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468 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:38:39 ID:7VkuSjDZ
マスオさんの過去と現在に対する少し辛い気持ち。気がつかされた私自身の奇妙な恋心。
そして、アナゴさんの優しさ・・・。
たくさんの感情が私の中で入り混じり、少し心が疲れましたが、
それでも相当大きな胸のつかえが取れたような爽やかな気持ちでした。
「普段はこんなに喋らないんですよ。唇が重いんで疲れるんです。いやぁ今日は疲れたなぁ。」
笑っていいものかどうか困っている私を前に、アナゴさんは突然バツの悪そうな顔で言いました。
「奥さん・・・。僕は奥さんの秘密を聞いたし、フグタ君の過去だって勝手に話してしまった。
それで自分のことだけ何にも言わないのはもの凄く腹持ちが悪いのです。・・・だから、僕の秘密も話します。
奥さんにとっちゃあ、ちっとも足しにならん事ですが、聞いてください。・・・実は・・・。」
アナゴさんは、声を潜めました。私は心持ち首を前に寄せアナゴさんの小さな声を聞こうとしました。
「さっき、僕はバイクに乗ってないって言いましたがね・・・。
申し訳ない、ありゃウソです。ホントは乗ってるんです。」
「えっ?マスオさんはご存知で?」
「いやぁ、知らんでしょう。確かに就職してから一度はやめたんです。もろもろの理由が積み重なってね。
でも、僕は我慢できなかった・・・。やっぱり乗っちゃったんですよ。
ただ、自分からフグタ君を誘うのは怖いんです。バイクに乗ると、いつ何が起こるか解かりませんからね。
自分から誘ってフグタ君に何かあったとしたら、僕はもう生きていけない。死ぬしかないでしょうな。
だから彼を誘うのが怖いんです。
・・・ただ、たぶんそのうちフグタ君も自分からバイクの世界に戻ってくると信じてます。
ですから・・・誰にも内緒ですよ、奥さん・・・。」
「えぇ、わかりました、約束します。指きりでもします?」
「いやぁ、こんなところで勘弁してください〜。」
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470 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:39:38 ID:7VkuSjDZ
私達は、ここまでの会話の中で初めて心の底から笑いあいました。
そしてマスオさんの過去を聞けたのが、この人の口からで本当によかったと思いました。
そして、マスオさんがこの人に会えたのは本当に幸運だとも思いました。
・・・アナゴさんは、マスオさんを救うのは「僕じゃあダメなんです」と言いました。でも・・・それは嘘です。
マスオさんはおそらく何度と無くアナゴさんに助けられたでしょう。
そして、アナゴさんもまたマスオさんに助けられたんでしょう。
二人の繋がりが二人の存在を馴れ合うことなく支えあっているのだと、私は感じていました。
そこに、やっと電話を掛け終わったマスオさんが帰ってきました。
それを横目で確認したアナゴさんは、今までの私との会話が全くウソのように元の様子に戻り、
そしてやや大きめの声でマスオさんに向かって言いました。
「おう!長かったなぁ。部長、なんだって?」
「アナゴ君、大変だ!今日、シーバス社に山本君がプレゼンに行くはずだったろ?」
「あぁ、あいつ張り切ってたなぁ。」
「それが、山本君、さっき会社で資料の準備してて書類の入ったダンボール箱持ってギックリ腰に
なっちゃったらしいんだよ!」
「なにィ!?あの、バカ・・・。」
「で、プロジェクトの経緯を把握してる僕達が代わりに先方に行ってくれって言われたんだ。」
「でも確か4時からだったろ?今から間にあうか?それに俺達の営業はどうするんだよ。」
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471 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:41:16 ID:7VkuSjDZ
「僕らの業務は小林君に電話で引き継いでおいたから代わりに行ってもらうよ。とにかく、僕は先に
シーバスに向かって事情を説明するから、君は社に戻って資料を持ってきてくれないか。」
「よし来たっ!」
「じゃあ、タイコさん申し訳ないですけど僕らは先に行きますね。」
マスオさんがそう言ってレジに向かうと、アナゴさんはテーブルの上の伝票を私達の分まで持っていこうとしました。
「あっ、それは・・・」
するとアナゴさんは、悪戯っぽい事務調子で言いました。
「こちらは依頼料でございます。先ほどの件、なにとぞよろしくお願いいたします。」
「なになに?なんの話?」
「なんでもねーよ!いいから早く行けっ!」
「わかったよ。じゃあ、タイコさん、また!」
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472 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:42:35 ID:7VkuSjDZ
そして二人は転がるように仕事に戻っていきました。窓の外を走ってゆく二人。
アナゴさんがチラッとこっちを見て会釈をしました・・・。
どうかフグタ君をよろしくお願いしますと言わんばかりに・・・。
私は、そんな二人の関係を少し嫉妬しました。
そして、気持ちのよい二人の後姿が雑踏に消えてゆくまで、私はずっと見守っていました・・・。
理由のわからない、でもあたたかい涙が頬を伝っていました・・・。
眠りから覚めた息子が、その涙を見て「ママ、どうしたの?どこか痛いの?」と聞いてきました。
私は笑いながら、「大丈夫よ。嬉しくて出る涙だってあるのよ。」と言いました。
そう言ってから、アナゴさんのクサいセリフ回しに乗りうつられたような気がして、私は苦笑しました。
そうして、私の心の苦しみはその日を境に溶け出していったのです・・・。
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474 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:43:20 ID:7VkuSjDZ
それから私は、それまでと変わらないマスオさんとの関係を保っています。
そして掴み所が無くたっておそらく私を裏切っていないであろう夫の事も変わらず愛しています。
内緒なんですが・・・あれから少し経ってマスオさんもオートバイに再び乗り始めたようです。
周囲の誰にも秘密で乗っているようですが、駅前を駆け抜けていった真っ黒の大きなオートバイに乗っていたのは
確かにマスオさんだったと思います。ヘルメットで顔を隠したって無駄です。
私にはあの「背中」でわかっちゃうんですから。
それと前後するように、マスオさんに少し変化があるように思えました。
彼の笑顔にあの日の開陽台で見た面影が戻ってきたような気がするんです。
もちろんそれは私しか気がついていません。
それが再び乗り始めたオートバイのおかげなのか、アナゴさんが言ったように
私が少なからず力になれたのかは解かりませんが、それはどっちでもよいのです。
それで私も幸せな気持ちになれるんですから。
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476 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2007/05/21(月) 01:44:47 ID:7VkuSjDZ
私はマスオさんの月です。マスオさんを遠くから見守る月です。それはちっとも辛い事じゃありません。
マスオさんと一緒に居るとき、いつだって学生時代のように少しドキドキして、そして暖かい気持ちになれるんです。
もしかしたら、時に人生の中で挫けそうになる私の足元を転ばないように照らしてくれている月は
マスオさんなのかも知れません・・・。
私はそんな関係を、とても幸せに思っています。
私はずっと、マスオさんを青い光で照らす月でありたいと願っています・・・。
笑顔絶えない愛する夫・・・。いとおしい我が息子・・・。過保護だった大切な両親・・・。
そして、優しさとぬくもりをくれるあの人・・・。
私は人生に感謝しています。いつだって悩みは絶えませんが、
そんな苦労も含めた私の人生を彩る人々の存在に今は感謝しています。
・・・私が学生時代に専攻したイタリア語に、こんな格言があります。
Malgrado tutto,la vita e` bella,degna di essere vissuta.
〜何があったって人生は素晴らしい。生きる価値があるものだ。〜
月は今日もあの人を照らします・・・。
そう、あの人に出会えた素晴らしい人生に感謝しながら・・・。
〜Fin〜
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