1-21 マスオ物語
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299 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/20(火) 23:35:11 ID:QSE1nC/W
【SCENE73】
僕は摩周湖を望む展望台で、間抜けにも口を開けっ放しでそのあまりにも美しい風景に釘付けになっていた。
深い青をたたえる湖面にカムイシュ島と呼ばれる岩島がアクセントのように浮かぶ・・・。
湖面は、急峻に落ち込む山肌に囲まれた、おいそれと人が近づけない遥か眼下であり、それがまた神秘性に拍車を掛ける・・・。
アイヌ語でカムイトー・・・『神の湖』と呼ばれるこの湖は、そう呼ばれる理由を疑う余地など無かった・・・。
摩周湖を初見で霧に邪魔されずに見られた者は、晩婚もしくは出世できないなどと言うジンクスがあるが、結果から言うと結婚に関しては、それは僕にはあてはまらない。後者については・・・まぁよい・・・。
とにかく当時の僕は、特に女性に対しては非常に奥手であった為、その数年後に結婚をしようなどとはその時は夢にも思わなかったし、もちろんその当時に恋人などいようはずも無い・・・。
「バイクが恋人」などという、悲惨な言い訳を自身に言い聞かせながらもその実は、未知の領域である『恋愛』が心のどこかで気になり始めていた青春時代・・・。
バイクがきっかけで心が外に向き始めていた僕にとって、それは自然な事だったのかもしれない・・・。
夏の北海道を舞台に、二つのタイヤに想いを乗せ、風を切って駆け巡る旅人はライダーだけではない。
もう一つの二輪車での旅のカタチ。それは俗に『チャリダー』と呼ばれる自転車乗り達だ。
彼らは延々と続く直線路や、長く険しい峠道を自らの足が生み出すエネルギーにのみ頼り、走破するという、タフさで言えばライダーの上を行く存在である・・・、がその彼女は少し異質な存在だった・・・。
これは、そんな自転車に乗った彼女との、出会いと淡い初恋の物語である・・・。
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300 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/20(火) 23:36:10 ID:QSE1nC/W
摩周湖の感動を引きずりつつ、僕はキャンプ場へ向かう。
今日の目的地は、東京出発翌日に雨の中で出会った北海道帰りのライダーが教えてくれた開陽台キャンプ場。
摩周湖から東へおよそ30kmの、広大な酪農地帯を見下ろす高台に造られたキャンプ場だ。景色がいいと聞く。楽しみだ。
陽は沈みかけ、目に入る全てが赤く染まり始める。長く伸びたNinjaと僕の影法師が先を走る。心地よい夕方・・・。
そんな人気の無い真っ直ぐに伸びる農道で、ふと前方から僕の目に飛び込んできた人の姿があった・・・。
自転車が路肩に倒れていた。その傍らで、何か作業をしている人の姿。
そのロードスポーツ車に括り付けれれたサイドバッグが旅行者である事を物語る・・・。何かのトラブルだろうか?
僕はNinjaをその脇に停め、声を掛ける。
「大丈夫ですかー?」
突然の呼び掛けに驚いてこちらを向いたその人を見て、僕もまた驚いた・・・。女性だった・・・。
夕陽の中にたたずむ、栗色のショートヘアーのその人は美しかった・・・。
・・・僕は、声を失った・・・。
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301 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/20(火) 23:36:53 ID:QSE1nC/W
誰もいない原野で、バイクに乗る男に突然に声を掛けられれば、それは驚きもするだろう。
彼女は、少し怯えた顔をしながら言った。
「あ、えっと、パンクしちゃったみたいなんです。」
前述の通り女性に対して奥手の僕は、ほとんど初体験であろうそんなシチュエーションを前に、一瞬思考回路が停止したが、寸でのところで我に返る。
バイクを降り、ヘルメットを脱ぎながらやっとのことで次のセリフを紡ぎだす。
「ちょ、ちょっとみせてもらえますか?」
頑強な大型バイクから降りてきた男のヘルメットの中身が、丸メガネをかけた優男だった事に彼女の緊張はやや和らいだようだった。
「パンク修理・・・やった事が無くて。どうしたらいいのか・・・。」
何時から自転車と格闘していたのだろう・・・。白魚のような彼女の手指は黒く汚れていた。リムにはタイヤレバーが
差し込まれてはいたものの、タイヤをホイールから外すには至っていなかった。
・・・良かった・・・。高校時代の自転車通学で、自転車のパンク修理技術を体得しておいて本当に良かった・・・。
彼女のパンク修理キットを駆使しながら、僕は慣れた手つきでタイヤをホイールから引き離す。
「わぁ!すごい、すごい!」
彼女は初めて笑顔を見せた。・・・僕は、流暢に作業を進めるように装いながらも、緊張の絶頂に居た・・・。
その時、何を話したのか、まるで覚えていない・・・。覚えているのは僕が作業を進めていく度に、感嘆の声をあげていることだった。
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302 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/20(火) 23:38:03 ID:QSE1nC/W
彼女は、僕のすぐ隣で膝を抱えてしゃがみこみ、時に身を乗り出して僕の作業を注目し、パンク修理に関する質問を投げ掛ける。
・・・夏の西日を受けながら、慣れない作業を続けていた彼女のTシャツは汗でしっとりと湿り、下着がうっすらと透けて見え、時折胸元がきわどい角度で僕の目線に入り込む・・・。
・・・僕にとってあまりに刺激的なそれらに対し、僕は目のやり場に困り果てる。投げ掛けられる質問に対しては上の空・・・。
僕は緊張と困惑の極地に居た・・・。
彼女からは、育ちの良さを随所に感じ取る事が出来た。言葉使いや身のこなしからも上流階級らしさを感じ取れたが、その一方で全くと言っていいほど警戒心の無いところも、世間知らずのお嬢様らしさを感じさせた。
修理が終わる頃には、太陽は地平線に消えかけていた。
「本当に助かりました。ありがとうございます。」
彼女の自転車の後輪は完治したが、もう夜がそこまで迫っていた・・・。僕は彼女にこれから何処まで行くのかを聞いた。
「釧路です。」
僕は驚いて思わず「えっ!」と声を上げる。釧路はここから100km近くも離れている。とてもこの時間から自転車で移動するような場所ではない。
聞けば、大学の仲間達と北見方面から美幌峠を越えて来たのだが、峠を越えるのが最も遅かった彼女は、弟子屈付近で道を間違えはぐれてしまったようだった・・・。
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303 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/20(火) 23:38:47 ID:QSE1nC/W
「・・・困ったなぁ・・・」
狼狽する彼女に対し、僕は思わず言ってしまった。
「この近くに開陽台っていうキャンプ場があって僕はそこでキャンプするつもりです。よかったら今晩はとりあえず御一緒 しませんか?」
言った後で、取りようによってはとんでもない事を言ってしまった事に気がつく。
言い訳するつもりは無いが、僕の誘いに全く他意は無い・・・。
当時の奥手な僕が、そこまで知恵を働かせて女性を誘えるはずなど断じて無い。
困っている旅人仲間に対しての助け舟のつもりだったのだ。・・・言い訳に聞こえるだろうか・・・?
まるで誘いを掛けるかのような僕の申し出に自分自身が驚き、そして自己嫌悪している側から、彼女は嬉しそうに答えた。
「本当ですか!?何から何までありがとうございます!」
彼女はそう言うと、初めて自分の名前を告げた・・・。
「私、入江タイコと申します。今日は本当に助かりました。」
・・・僕の胸は、バイクと接している時のそれとは異なる高鳴りに包まれていた・・・。
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354 :774RR:2006/06/24(土) 00:15:41 ID:0BJIqWX0
【SCENE74】
パンク修理現場から数キロほどの開陽台キャンプ場。僕がテントを張り終えた頃、自転車の彼女は遅れて到着した。
「わぁ・・・、ホントにいい景色ですね・・・」
太陽は完全に沈み、紫色に染まった空と、オレンジ色の残光を反射した雲が地平線の上に覆いかぶさっていた。
遮るものの無い広大な平原は、夕暮れに複雑に色を変え、見るものを虜にする・・・。確かに想像以上の絶景だった・・・。
・・・しかし、僕はそれとは異なる別の美しさに目を奪われていた・・・。
夕暮れの光を受け、高台の心地よい風に髪をかきあげながら雄大な景色を見つめる彼女の横顔に、僕は釘付けになっていた・・・。
思えば、意識をして女性の顔を見つめた事など僕には無かった・・・。サラサラと風になびく栗色の短い髪の毛・・・。
スッと端正なラインを描く高い鼻・・・。白い肌・・・。小さな唇・・・。彼女は本当に美しかった・・・。
・・・僕を、これまでに経験した事の無い感情が支配しようとしていた・・・。
あまりに経験の足りなかった僕は、その感情の正体を自分自身で理解できていなかった・・・。
ただ、胸が熱くなり、そしてソワソワと落ち着かず、地に足の着いていない感覚が襲ってくるのだった・・・。
暗くなってしまってはテント設営に支障をきたす。僕は夕闇の中、彼女のテント設営を助ける。
どうやら彼女はキャンプも初心者に近いレベルのようで、ほとんどの作業を僕がこなす。
「やった!完成〜!・・・もう本当に今日は何から何までお世話になっちゃって、ありがとうございます」
育ちが良いのであろう。彼女は、僕の手助けの一つ一つに丁寧に礼を述べる。・・・そして、彼女は驚きの行動に出た。
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355 :774RR:2006/06/24(土) 00:17:16 ID:0BJIqWX0
「よいしょ、よいしょ」
彼女は、今完成したばかりの自分のテントを、設営済みの僕のテントに密着せんばかりの隣まで引っ張ってくると、ペグを地面に打ち込んだ。
・・・一大事だ・・・。こんな至近距離で一晩を過ごすのか?・・・純情過ぎる僕にとって、この距離はあまりにも衝撃的な近さだった・・・。どうしよう・・・。僕は口を半開きのまま、思考回路が停止したのを感じた・・・。
彼女も彼女だ。あまりに無防備で、世間知らず過ぎる・・・。立ち尽くす僕の顔を覗き込むように、無邪気な笑顔で言う。
「どうしました?」
首を傾げてそう問いかける彼女の仕草が、僕のストライクゾーンをあまりにも的確に射抜く・・・。第三京浜を200km/hで
駆け抜ける時のように、口の中がアドレナリンの味で満たされる・・・。
思えばこの時が、鈍感な僕なりにもこの感情が『恋ごころ』というものであると言う事に、無意識のうちに自覚した瞬間だったのかも知れない・・・。
開陽台展望台の公衆電話で、彼女は東京に電話を掛ける。既に暗いので僕も彼女に付き合った。
大学のサイクリングサークルの東京居残り部員に、自分一人がパーティーからはぐれ、現在は中標津の開陽台キャンプ場で一人のライダーの手を借りて無事である事を伝える。
居残り部員は、本隊からの定時連絡時にその旨を伝え対応を協議するので、翌朝もう一度連絡をしてくるようにとの指示を彼女は受けた。
すると、彼女はもう一本電話をしたいという。東京の実家へだった。
娘の身を案じる両親が、毎日電話をすることを彼女に約束させたらしい。
「・・・はい、みんなと一緒に元気にやってます。はい・・・、はい・・・」
みんなと一緒?大学の連中とはぐれたことを伝えなくていいのか?
受話器を置いた彼女は、訝しがる僕に対し、悪戯っ子のように小さく舌を出して言った・・・。
「お父さんにウソついちゃいました」
ダメだ・・・。何と言ったらよいのか・・・、もう、卒倒しそうだ・・・。
僕は、完全に彼女のペースに引き込まれ始めていた・・・。
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356 :774RR:2006/06/24(土) 00:18:42 ID:0BJIqWX0
「わたし、箱入り娘なんです・・・」
僕の「サイクリングが好きなんですか?」という質問に対して、彼女は全く僕の意図しない回答から口を開き始めた・・・。
予想外の回答にあっけに取られる僕に対し、自分で言うのもおかしいですね、とマグカップの中の僕の作ったコーヒーを飲みながら彼女は笑った。
お互いのレトルトカレーで済ませた食後。
8月とは思えない涼しさに、僕のストーブで小さな暖をとりながら、僕達は芝の上に座り会話を交わしていた・・・。と言っても、この期に及んで僕は極度の緊張でほとんど口を開かず、彼女の話を聞いている
ばかり・・・。僕にとっては決死の質問だった・・・。
「ずっと、大事に匿われるように育てられて来たんです・・・。何でも両親が助けてくれてたんです・・・。」
彼女は、ストーブの炎を眺めながら話を続ける・・・。柔らかい炎の明かりに照らされた彼女は、ひときわ美しく見えた・・・。
「小さい頃からそれが当たり前だと思ってたんです・・・。でも、高校に入った頃くらいからかなぁ・・・。自分があまりにも未熟だった事に少しずつ気がついてきて・・・。」
穏やかな笑顔と柔らかい語り口だが、彼女が真剣に言葉を発している事は理解できた・・・。
「そのくらいの年頃になってくると、色んな人に出会うようになってきますよね・・・。さすがに親に守られた世界だけには居られなくなってくるというか・・・。そうすると、自分がいかに無力だったのかっていうのを痛感するようになってきたんです。
自分自身で生きる力っていうのかな?そんな力が自分には備わってないような気がして・・・。そんな自分がちょっぴり悔しくて・・・」
この春、有名私大にストレート入学した彼女。
大学に通うようになるとそんな思いはますます大きくなって行ったと言う・・・。
「自転車は好きだったんです。良く小さい頃から両親にサイクリングには連れて行って貰ってましたから・・・。
大学のサークル勧誘で心を惹かれたんです。自転車で色んなところに行く・・・、夏には遠く北海道まで行く・・・。
親から離れてどこか遠くに行く事なんて、学校の修学旅行くらいしかありませんでしたから・・・。
親元から離れて、自分の力でどこか遠くまで行ければ、少しは自分にも生きる力が付くのかなって思って・・・。」
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357 :774RR:2006/06/24(土) 00:20:23 ID:0BJIqWX0
僕は恥かしかった・・・。
彼女は何の不自由も無い生活の中で、それでも自分の殻を破りたいと願い、自ら行動に移したのである・・・。
特に尊大な理由も無く、単に親から・・・故郷から離れたいが為に逃げるように大阪から東京の学校に入学した自分とは明らかに人生に対する向き合い方が異なっていた・・・。
幸運にも、僕もまたバイクを通じてそれまでのマイナス思考でネガティブな人生から脱却する事が出来た・・・。
しかしそれはあくまでも結果オーライであり、バイクの持つあまりにも大きな魅力と積極的に僕を闇から連れ出してくれた親友の力に頼るところが大きく、決して僕がそれまでの生き方を変えようと強く願っての事では無かった・・・。
無邪気で、世間知らず・・・。穏やかでどこか抜けたようなところのある彼女は、実は積極的に生きる道を切り拓こうとするエネルギーに満ちた強い女性なのであった・・・。
「でも最近、自己嫌悪なんです・・・。走るのだって一番遅くていつもみんなに迷惑を掛けてばかりだし、それが元で今日もみんなからはぐれちゃうし・・・。方向音痴だし、パンクだって自分で直せないし、テントだってまだ一人で張れないし・・・」
抱えていた膝を、キュッとひときわ強く抱えなおし彼女は言った・・・。
「最近、思うんです・・・。やっぱりわたしは一人じゃ何も出来ないのかなぁって・・・。親がついていないと何処にもいけないし何一つ満足に出来ないのかなぁって・・・。」
涙を流しそうになったのか、彼女は右手人差し指を右目の目尻に持っていく・・・。そして、自虐的な笑みを浮かべ言った。
「・・・わたしは弱い人間なのかなぁって・・・思うんです・・・。」
僕はもう一度、彼女より数倍も情け無い自分のこれまでを思い返す・・・。そして思う。
・・・そんなことは無い・・・、彼女は断じて弱い人間などではない・・・。
本当の深淵を知る僕だからこそ言い切る事ができる。キミは弱い人間なんかでは無い、と。
僕は、あくまでもそう心の内で叫んでいるつもりだった・・・。
しかし、僕は反射的にその場に立ち上がり、彼女と出会ってから一番大きな声で無意識のうちに叫んでいた。
「絶対そんなことありません!自信持ってください!!」
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358 :774RR:2006/06/24(土) 00:22:18 ID:0BJIqWX0
・・・彼女は僕を見上げ、キョトンとする。
・・・またやってしまった・・・。バイクに乗ってからというもの、それまで無かった直情的な行動が多くなったような気がする・・・。
ヘルメットの中で歓喜の雄叫びをあげたり、屈強な外国人バイク集団に喰って掛かったり、見知らぬ強者の背中を追い回したり、悪質運転のクルマを威嚇したり・・・。
バイクが僕の心を尖らせたのか・・・、それとも自分の心の奥底に眠っていた感情がバイクによって呼び起こされただけなのか・・・。
・・・いずれにせよ、反省せねばなるまい・・・。彼女も驚いているではないか・・・。
しかし、そんな僕の心中に反して、彼女は笑った・・・。自虐的ではない、可愛らしい笑顔で彼女は笑った・・・。
笑顔の頬を一筋の涙が伝った・・・。彼女はその涙を拭きながら、立ったままの僕を見上げながら言った。
「今日は、マスオさんに出会えて本当に良かったです・・・。」
僕は、初めて同年代の女性に下の名前で呼ばれた事に驚く。
むず痒い心持ちの僕に、彼女はさらに言った。
「今日はもう、本当に本当に何から何までありがとうございます。」
彼女は今日、何度目になるであろう礼を述べる・・・。いまだ涙目のその笑顔は、あまりにも美しかった・・・。
・・・そう、・・・僕は恋に落ちていた・・・。
夜も更けて、僕達は眠ることになった・・・。もちろん、当然、それぞれのテントで、である。
時折、小さな風がタープを揺らす音しか聞こえない静かなテントの中。
まるで彼女の吐息が聞こえてきそうなほどの至近距離に居る事で、僕はすっかり眠気がどこかにぶっ飛んでいた・・・。
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405 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/25(日) 23:11:43 ID:b/WvVDhh
【SCENE75】
結局、僕はほとんど一睡も出来ずに朝を迎えた・・・。
テントの薄布で区切られているものの、手を伸ばせば届くような距離に、うら若き女性が眠っていたのだ・・・。
当時の僕にとって、それはあまりにも刺激的であった・・・。
テントの中からでも、空が暁に染まってくるのは感じ取れた。
薄明かりの中で、早くも鳥のさえずりが聞こえた・・・。
しばらく、眠るでもなくまどろんだ意識の中に居た僕・・・。
すると、おもむろにテントの外からガサガサという明らかに人間が活動しているであろう音が聞こえたかと思うと、彼女・・・タイコさんの声が聞こえた。
「うわぁ・・・」
何事か?僕は寝不足で朦朧とする意識の中、テントからゴソゴソと這い出した・・・。
それに気が着いた彼女。
「おはようございます。ほら・・・見て下さい・・・すごく綺麗ですよ・・・」
彼女が指差した方を見て僕は息を呑んだ・・・。
遥か原野の地平線が視界に入りきらないほどに広がる開陽台からの眺めは、昨夕のものとは一変していた・・・。
見渡す限りに延々と、うっすらと朝もやで覆われた大平原。
高台の開陽台からのその見晴らしは、まるで雲の上から見降ろしているかのような飛翔感を伴うものであった・・・。
夕陽よりもエネルギッシュな朝日を浴びたその光景は大自然のエネルギーに満ち溢れ、一日の始まりにふさわしいものであった・・・。
他のキャンパーの姿は見えなかった・・・。皆、まだテントの中で眠っているようであった・・・。この光景は、彼女と僕だけのものだった・・・。
この美しい光景を前に、彼女ははしゃいでいた・・・。
箱入り娘の彼女にとっておそらく、初めてだったのであろうその雄大な景色・・・。
素直に感動を露にする彼女に、僕はもっとたくさんの感動をあげたいと思った・・・。
ふと西の空をみると、朝もやの中に幾つかの山の頂きが覗いていた・・・。
あれは、藻琴山・・・硫黄山・・・、そしてカムイヌプリ・・・。・・・そう、あのカムイヌプリの直下には・・・カムイトー・・・、神の湖と呼ばれる美しき湖があるはずだ・・・。
・・・僕は彼女に尋ねた・・・。
「摩周湖は見ましたか?」
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406 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/25(日) 23:12:39 ID:b/WvVDhh
「いえ・・・。ウチのサークルって、それぞれのペースで結構自由に走るんです。
美幌峠を降りたあとに、足に自信のある人達は行くような事を言ってましたけど・・・。摩周湖までの峠道って険しいって聞いてたんで、私はパスしました。
・・・行ってみたいんですけどね・・・、今回はあきらめました」
彼女はガッカリしたような笑顔を浮かべそう言った・・・。
・・・そうだったのか・・・。僕は彼女が可哀想に思えた・・・。あの美しき湖のこんなに近くに居るのに・・・、見る事が出来ないなんて・・・。
これほど美しき景色を愛でる彼女に何とかしてあの吸い込まれるような湖面の青を見せてあげたかった・・・。
そこまで考えた僕の頭に、ふとある乗り物の姿がよぎった・・・。
・・・そう、僕には彼女の願いを叶えてあげる事ができる・・・。
大人ふたりを軽々と、険しい峠道の頂上まで運ぶ事が可能な、力強き躍動する翼を僕は持っている・・・。
・・・僕は迷わず真っ直ぐに彼女を見据えて、言った・・・。
「僕が連れて行ってあげます・・・。摩周湖、見に行きませんか?」
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407 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/25(日) 23:14:33 ID:b/WvVDhh
「うわぁ!すごい、すごい!」
タンデムシートの彼女は、Ninjaのスピードに驚きの声を上げていた。
・・・と言っても、当然の如く彼女に自分のヘルメットを被せた僕は、ヘルメット未着用・・・いわゆるノーヘルであり、そのおかげで非常に眼が乾くので、60km/h程度の低速走行を強いられていた・・・。
それに、後にも先にもノーヘルで走ったのはこの日をおいて他には無い・・・。
僕は広大な原野の中に潜んでいるかもしれない警察の影にも、実は怯えていた・・・。
・・・しかし、僕のいつものライディングを阻害する要因は、眼の渇きや警察の影だけではない・・・。彼女だ・・・。
ニーグリップとグラブバーにより体を保持するバイク乗りのアナゴ君と異なり、初タンデムの彼女はギュウと両の腕を僕の腰に回ししがみ付いていた・・・。
一応、僕は走り出す前に乗車姿勢を彼女に伝えたはずなのだが、初めてのタンデムの怖さからか、数分も経たないうちに何時の間にか彼女はこの体勢で僕にしがみ付いていた・・・。
彼女の足が・・・腕が・・・そして胸が・・・、僕に密着する・・・。
・・・僕はもはや平静さを保てるはずも無かった・・・。
GPz900R Ninjaは、頭に血が昇ってしまった情けない主人と、初めて乗せる可愛らしい女の子とともに、摩周湖に向け朝もやの中をヨロヨロと進んでいった・・・。
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435 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/27(火) 23:42:35 ID:uYZbFW5D
【SCENE76】
僕は摩周湖展望台へと続く峠道を、彼女と共に駆け上りながら、一抹の不安にかられていた・・・。
それは、摩周湖がその湖面を僕達に見せてくれるのかという疑念・・・。
『霧の〜』という定番の修飾語まで存在する摩周湖・・・。
特に、6月〜8月のこの季節が、最も霧によって湖面を望むことの叶わない確率が高いと言われている・・・。
今朝だって、このあたり一体ですら濃い朝もやに包まれていたではないか・・・。
摩周湖展望台にまで行って、湖面を見る事が出来ない悔しさを想像すると、まだ行かない方がマシというものであろう・・・。
・・・そんな僕の不安をよそに、相変わらず僕にガッシリとしがみ付いた姿勢のままで、それでもタンデムに慣れてきたであろう彼女は、時折すれ違うライダーに手を振っているのだった・・・。
・・・奇跡は起きた・・・。摩周湖展望台に辿り着いた僕らの前に、摩周湖はその神々しい姿をハッキリと現していた・・・。
僕の手を借りバイクから降りた彼女は、駆け足で展望台の柵に向かう。
その歩みは、視界に入ってくる湖面の面積に反比例するようにゆっくりとなり、柵の手前で彼女は足を止めた・・・。
彼女は今朝、開陽台の眺めを目の当たりにした時のような感嘆の声を上げなかった・・・。
その景色に感動していない訳ではない・・・。彼女はポカンと少しだけ口を開き、その美しい景色の虜になっていた・・・。
「・・・きれい・・・」
彼女は独り言のようにそう呟いた・・・。
そして、飽きることなくいつまでもその景色を眼に焼き付けるように見つめているのであった・・・。
摩周ブルーに心奪われる彼女・・・。そして彼女は言った。
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436 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/27(火) 23:44:30 ID:uYZbFW5D
「・・・北海道に来る前から雑誌や絵ハガキでここの景色を見て、憧れてたんです・・・。でもやっぱり私の力じゃここまで来るのは無理だって諦めてたから・・・、だから今、夢を見てるみたいです・・・。」
「・・・マスオさん、私の夢を叶えてくれてありがとうございます・・・」
泣き虫の彼女は、憧れの摩周湖を見る事が出来た感激に、たまらず込み上げる嬉し涙を拭きながらそう言った・・・。
僕は顔を真っ赤にしながら取ってつけたような返事をするのが精一杯だったが、それでも心の内では彼女をここに連れてきて本当によかったと思っていた・・・。
しばらく湖面を眺めていた彼女は、ふと近くの観光客の老夫婦に声を掛ける。
彼女はウエストポーチから小さなライカを取り出すと、丁寧にシャッターを押す事をお願いする。
「ほらっマスオさん!写真撮ってもらいましょう。こっちこっち!」
かくして、僕と彼女は摩周湖をバックにツーショットで写真に納まった。
彼女は僕のすぐ隣でおすまし顔。・・・僕は緊張で棒の様に固まったまま・・・。
女性と二人で写真に写るなど初めてのことだった・・・。
・・・はしゃぐ彼女の笑顔を見て、この景色をプレゼントしてくれたアイヌのカムイ達に僕は素直に感謝した・・・。
深く澄んだ摩周ブルーがそんな僕らを見守っていた・・・。
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437 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/27(火) 23:45:45 ID:uYZbFW5D
その後、僕らは屈斜路湖方面へと下った。・・・小さなデートが始まった・・・。
硫黄臭たちこめる硫黄山は決してロマンチックな観光スポットではなかったが、好奇心旺盛な彼女は噴出する硫黄ガスをもっと近くで見たいと言い、僕の手を引いて先を行く。
いつしか、硫黄山の岩山を頂上まで登っていた・・・。頂上につく頃には、先に立って手を引いていたのは僕だった・・・。
硫黄山を下山すると、そのまま川湯温泉の観光ホテルで風呂に入った・・・。
やはりもちろん、言うまでも無いが混浴などではない・・・。
先に風呂を出たのは僕。ホテルのロビーで待つ僕の元に少し遅れて出てきた彼女は、ほのかにシャンプーの香りがした・・・。濡れ髪が色っぽかった・・・。
温泉街に軒を連ねる土産物店を彼女と歩いた・・・。
珍しいアイヌの伝統工芸品の数々に、彼女は目を輝かせていた・・・。
僕が他の土産物を見ているうちに、彼女は何か買い物をしたようだった。何を買ったのか問いを投げ掛けた僕に彼女は恥かしそうに内緒です、と答えた。
お世辞にもお洒落とは言えない温泉街の食堂で、僕らは朝食とも昼食ともつかない食事をとった。
女性と二人っきりで外食などした事の無い僕にとって、ほとんど味わう余裕など無かったが、つい先ほどの摩周湖や硫黄山の思い出を彼女は楽しそうに語っていた・・・。
・・・おそらく、傍から見る限り、僕らは恋人同士のようであっただろう・・・。
僕は緊張と、そして相反する嬉しさとでまるで天にも昇るような心持ちだった・・・。
・・・楽しくて楽しくて仕方がなかった・・・。
それまで、半ば意図的に目を背け、時として悔し紛れに否定してきた恋愛というものに僕は没頭しかけていた・・・。
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440 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/27(火) 23:48:26 ID:uYZbFW5D
「あ〜、すっかり忘れてた!」
川湯温泉街を後にしようとした直前、彼女は突然そう声を上げた。
ちょっと待ってて下さいと言って、彼女は公衆電話を探し、電話をする。
・・・そうだ・・・。彼女は自転車サークルの東京居残り部員に連絡し、別れてしまった本隊との合流に対しての指示を仰がなければいけなかったのだ・・・。
「みんな今日は予定通り根室の方へ行って、明日のお昼ぐらいに開陽台キャンプ場に来るそうです。
私はもう一日キャンプ場で待機しなさいって言われました・・・。」
彼女は僕にそう報告した。・・・僕は我に返った・・・。
・・・そうだ・・・、彼女は大学の仲間と北海道へやって来て、不慮のトラブルで本隊とはぐれ、偶然のうちに僕と出会ったに過ぎない・・・。僕と彼女は遅かれ早かれ別れなければならないのだ・・・。
そんな現実を認識した僕は、愕然とした・・・。
永遠に続くかのごとく錯覚していた楽しい時間に、実はものすごく短いタイムリミットが設けられている事を認識した僕は、途端に心が重くなってゆくのを感じていた・・・。
もっと彼女と一緒に居たい・・・。この時間がずっと続けばいい・・・。
だが、それは叶わぬ夢・・・。それに、それは哀しい事に僕の一方的な願いであるのかも知れない・・・。
いや・・・、恋愛に自信など無かった僕は、ほとんど100%の確率でそれは僕の一方的な願いであると信じて疑わなかった・・・。
こんなに可憐で理知的で美しい女性が、僕と同じ想いでいるという事など到底考えられない・・・。
その時、何故か僕達の間にしばらくの沈黙が流れた・・・。
そして、そんな僕の心中を知ってか知らずか、彼女は下を向いたまま言った・・・。
その声が、思いつめたようなものか、不安そうなものかは判断しかねた・・・。
「・・・もう一日、御一緒してもらっていいですか・・・?」
ハイと返事をするのが、何故かとても照れ臭かった・・・。
そして、彼女の「もう一日」という言葉が、確実に迫る別れを暗示するかのようで、僕の心に重く突き刺さるのだった・・・。
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480 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/30(金) 00:40:39 ID:ZjQcKayX
【SCENE77】
彼女と僕の間に、なにやら気まずい空気が流れていた・・・。
事実上、近いうちの二人の別れを確定付ける先ほどの電話以来、彼女はうつむき気味で言葉も少なくなっていた・・・。
そして僕もまた、そんな彼女の雰囲気に呑まれ、また、来たるべく彼女との別れへの憂鬱から、ほとんど言葉を失っていた。
・・・今思えば、何故その時の彼女が元気を失っていたのか、思いを馳せるべきだった・・・。
今となっては自分勝手な想像の域を出ないのだが、僕はもっと自信を持つべきだったし、それからの短い時間で何度か訪れる『機会』すら逸していた・・・。
・・・そう・・・、僕は若く、そして愚かだった・・・。
あまりにも異性との関わりにおいての経験値が少なすぎた・・・。
ほとんど初めての恋に、僕の心は舞い上がり、地に足が着かず、自分の事しか考えられなくなっていたのかも知れない・・・。
とにかく、僕はその気まずい空気に困り果てていた・・・。
なんとかしてその空気を切り替えようと模索してみても、通常の会話すら緊張でままならない僕に、気の効いたセリフが出てこようはずも無かった・・・。
無言の二人を乗せたNinjaは、屈斜路湖半を後にして開陽台に向かって走っていた・・・。
と、その時、そんな僕達にとって思いがけない救世主が現れたのだ。
弟子屈の街中で赤信号で停止したNinja・・・。
彼女はバイクが停止しているにも関わらず、走っているときと同じように僕にピッタリとしがみ付いていた・・・。
相変わらず無言のままだった・・・。
その重苦しい空気に、そろそろ僕は押し潰されそうになっていた・・・。その時である。
停止線で停車するNinjaの横に、一台のバイクが横付けした。ホンダCD90。
僕はそのライダーを見てギョッとした。
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481 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/30(金) 00:41:40 ID:ZjQcKayX
紺色の制服・・・。重々しい黒い腰ベルトには拳銃と警棒・・・。ジェットヘルメットには菊の紋・・・。しまった!巡査だ!
・・・僕はヘルメットを被っていない・・・。やられた、と思った・・・。
中年の巡査は、僕を頭から足先まで一瞥すると、今度はタンデムシートの彼女に目をやる。
いかにもライダーといういでたちながら、ヘルメットのみ装着していない僕。
そして、比較的軽装でありながら、ヘルメットだけは被っている彼女・・・。
巡査は、なんらかの事情を察知したかのように口を開く・・・。
「・・・お兄ちゃん、ヘルメット被んないとダメだべさ」
北海道弁に迫力と緊張感が無い。
僕は「あ、その・・・」と言い掛けたが、巡査は言葉を続けた。
「気をつけんべ。あと、この辺、たまに取り締まりやってっからね〜」
信号が青に変わる。巡査はそれ以上は何も言わず、後ろ手に手を振って走り去ってしまった・・・。
唖然とする僕の背後で、彼女が無邪気に巡査の後姿に手を振っていた。顔を見合わせる僕と彼女。
『ヘルメット着用義務違反』による検挙の憂き目から見逃された僕は、彼女と目が合うと、思わず笑いが込み上げてしまった・・・。吊られて彼女も笑う・・・。僕らの間に笑顔が戻ってきた・・・。
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482 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/30(金) 00:43:22 ID:ZjQcKayX
大地を真っ二つに貫く写真で有名な北19号を開陽台へと向かう僕達。
道端にバイクを停め、牧草地で草を食む馬を見て喜ぶ彼女の様子は、すっかり明るさも戻っていた。
昼をやや過ぎた頃、開陽台キャンプ場に帰着。初めてで、そして最後となる彼女との小さなタンデム旅行は終わった・・・。
「ありがと!」
彼女はそう言って、Ninjaのタンクをまるで飼い犬にそうするように撫でる。
「マスオさん、今日は本当に楽しかったです。ありがとうございました。」
彼女は満面の笑みでそう言った。僕は彼女に喜んでもらえた事が、なにより嬉しかった・・・。
午後の開陽台には、優しい風と時間が流れていた・・・。
開陽台での記念にと、二人一緒の写真を僕のカメラで撮った。
シャッターをお願いしたライダーが僕らを茶化すように「ホラホラ二人とも、もっとくっついて」と言った瞬間。
彼女は僕の左腕を抱きかかえるように両腕を回して来た。その刹那、シャッターが下りた・・・。
驚く僕の顔を見上げて、彼女は照れ臭そうに笑っていた・・・。
いつしか昨日と同じように、黄金色の美しい夕焼けが地平線を飾っていた・・・。
開陽台展望台から、僕らは夕陽を眺めていた・・・。彼女は、展望台の柵に頬杖をつきながら独り言のように言った・・・。
「・・・このまま時間が止まればいいのに・・・」
その時、僕は彼女のその言葉を、目の前の沈み行く美しき夕陽に向けて言ったものだとばかり思っていた・・・。
今になって思えば、彼女のその言葉に他意があったと考えるのは自惚れだろうか・・・。
・・・いや、いずれにしても今さら詮無きことだ・・・。
何度も言う・・・。僕は若く、そして愚かだった・・・。
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483 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/30(金) 00:44:43 ID:ZjQcKayX
開陽台駐車場前にある、小さなレストランで僕らは夕食を摂った・・・。
女将さんは僕らを恋人同士だと思ったらしくそうではないという事を知ると「またまた〜」と言って僕らをからかった。
僕と彼女は顔を赤くして下を向いていた・・・。
ふと顔を上げると、彼女と目が合ってしまい、僕は慌てて再び下を向くのだった・・・。
彼女と二人っきりの最後の夜だからと言って、何か特別な事があったわけではない・・・。本当だ。
今にして思えば、僕に少しばかりの積極性があれば何かが変わっていたのだろうか・・・。
もしかしたら、小さな勇気一つで僕の人生は大きく変わっていたのだろうか・・・。
彼女の笑顔は、今でも僕の隣にあったのだろうか・・・。
・・・それは、誰にも解らない・・・。
しかし一つだけ言えることは、この短い数日間の中で、僕は自分の気持ちに素直に正直に行動しきれなかったと言う事だ・・・。
僕には自信が無かった・・・。勇気が無かった・・・。・・・僕は・・・弱かった・・・。
結局、僕は彼女に対して自分の気持ちを直接的どころか、間接的にも伝えることは無かった・・・。
満天の星空の下で、僕達は昨晩と同じように、他愛も無い事を語り合った・・・。ただそれだけだった・・・。
彼女との別れを意識しながらも、その残された短い時間は無情にもカウントダウンを止めることは無かった・・・。
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484 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/06/30(金) 00:46:28 ID:ZjQcKayX
・・・僕は本当に愚かだった・・・。
何故、人一倍彼女と共にいつまでも一緒に時を過ごしたいと思いながら、彼女が夕陽を見ながらこぼした一言に思いを馳せる事が出来なかったのだろう・・・。
・・・夜も更け、僕と彼女はそれぞれの寝床へ・・・。
「・・・おやすみなさい・・・」
そう言った彼女の笑顔が寂しそうに見えたのは、僕の気のせいだったのだろうか・・・。
すぐ隣で彼女が眠っている事に相変わらず緊張しながらも、昨晩ほとんど眠っていなかったせいで、僕はいつしかまどろみ始めていた・・・。
虫の音が、遠くなる意識の中で小さくなっていった・・・。
あまりに彼女の事を想うが為に、夢を見ていたのだろうか?それとも幻聴だったのだろうか?落ちかけた意識の中で彼女の声が聞こえたような気がした・・・。
・・・僕は彼女に伝えなければならない事を伝えられないまま、二人きりの最後の夜は過ぎていったのだった・・・。
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537 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:14:12 ID:GAmjrabH
【SCENE78】
前日の寝不足がたたったのだろうか・・・。翌朝、目が覚めたのは午前10時前だった・・・。
しばし寝ぼけていた僕は、ハッとして起き上がる。そして慌ててテントを這い出る。
・・・彼女が夢のように消えていなくなってしまっているかも知れないような錯覚に囚われていたからだ・・・。
「おはようございます!」
テントを出た僕の前に、彼女の笑顔があった・・・。ホッとした・・・。
それも束の間。僕は彼女との迫り来る限られた時間を思い出す・・・。再び何かを差し込まれたような心の痛みに襲われる。
・・・もうすぐ別れなければならない彼女の笑顔は、哀しいほどに美しく思えた・・・。
今日、彼女は大学の仲間とここ開陽台で合流予定だ。
しかし、それを見届けずに彼女を一人ここに置いて行くわけにはいかない。
「みんなが来るまではここに居ますよ」
僕がそう言うと、彼女は笑顔でありがとうございますと言い、その後、下を向いて申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい・・・。私のせいでマスオさんの予定が狂っちゃったでしょう・・・?」
そんな彼女の様子を見て、僕は思わず口走りそうになった。
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538 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:14:44 ID:GAmjrabH
「とんでもないです。僕が・・・」
そこまで言い掛けて僕は言葉を止め、本来言おうとしていた事を飲み込んで別の言葉に差し替えた・・・。
「予定なんて初めから無い、あてもない旅ですから。だから気にしないで下さい」
・・・本当は「僕が一緒に居たいからここに居るんです」と言うところだった・・・。
そしてそう言うべきだったのかも知れない・・・。
臆病な僕は、当たり障りの無い言葉で格好つけるのが精一杯だった・・・。
彼女の沸かしてくれたコーヒーを飲みながら、僕らは残された時間を開陽台の涼しい夏風に吹かれながら語り合うことで過ごすのだった・・・。
そうして、二人きりの最後の時間は何の進展も無く過ぎていくのだった・・・。
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539 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:15:38 ID:GAmjrabH
午後3時前。ついに運命の時が来た・・・。
彼女の大学の仲間達が開陽台キャンプ場に到着した。間を置いて続々と集まるその数はかなり多い。
部長と思しき男子学生に彼女は迷惑を掛けた事を謝る。そして、突っ立っている僕を紹介する。
「東京から来たフグタさんです。パンクの修理をしてくれたり、キャンプの手伝いをしてくれたり、すごくお世話になったんです。」
スポーツ刈りと小麦色の肌が爽やかな部長は、僕の手を握り新入部員が世話になった事に対し丁寧に礼を述べる。
そうしているうちに、全てのメンバーが開陽台に到着したようだった。かなりの数だ。20人は居るだろうか・・・。
半数弱は女子部員だろうか。なんと外国人までいる。留学生だろうか?彼らは立ち話やテント設営を行ったりと、それまで静かな時間の流れていた開陽台キャンプ場が一気に賑やかになる。
男子部員の一部には、遠巻きに「かわいい新入部員に何もしなかっただろうな?」という訝しむような視線を遠巻きに向けるものもいた。冗談ではない。
こんな可愛らしい女性を原野に置き去りにした責任はそもそもそっちにあるのだ。
それでも大半の人間は気のいい連中に見えた。・・・もう心配あるまい・・・。さて、そろそろ僕は消える頃だ・・・。
「じゃあ、僕はそろそろ・・・」
僕がそう言うと、彼女はハッと振り返った・・・。すると、すぐに部長が言った。
「えっ!?今から行っちゃうんですか?もうこんな時間ですよ?」
夕暮れにはまだ少し早いが、それでも確かに移動を開始するには遅い時間のような気もした・・・。
バイクより移動速度の遅い自転車の彼らの時間観念的にはなおさらだったのだろう。
部長は爽やかに光る真っ白な歯を見せながら笑顔で言った。
「きちんとお礼もしたいし・・・。どうですか?もう一晩ここに泊まっていっては?一緒に呑みましょうよ!」
・・・たくさんの仲間に囲まれた彼女を見ると、僕はなにやら場違いにも思えたが、無下に断る理由も無い・・・。
僕はその誘いのままに、3泊目の開陽台キャンプ場での夜を過ごす事にした。
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540 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:16:49 ID:GAmjrabH
僕は大きな違和感と疎外感に包まれていた・・・。
昨晩までの彼女と二人きりの静かな夜はそこには無かった・・・。
たくさんの学生達の宴の輪の中に僕は居た・・・。
それほど人付き合いが上手ではない僕に、今日あったばかりの見知らぬ他校生達と会話が盛り上がるはずも無い。
僕は、輪の中で小さくなって彼らの会話を聞くとも無く聞いていた・・・。
昨晩まで僕の隣に居た彼女の姿は近くになかった。
新入部員である彼女は、他の一年生とともに忙しそうに先輩部員達の世話を焼いていた・・・。
彼女は男女を問わず、仲間達に愛されているようだった・・・。
彼女の居るところには常に人が集まり、特に男子達のアイドル的存在のようであった・・・。・・・無理も無い、と思った・・・。
さらに驚いたのは、おそらく英語ではない言語を話す男子留学生と、彼女は流暢に会話をしていることだった。
聞くところによると彼はイタリアからの留学生との事だった。
・・・中・高、そして浪人時代と早稲田に入学してからのおよそ10年間の学習を受けているにも関わらず、英会話すらままならず、第三京浜でのレッド達との会話もジョージの通訳が無ければ成立しない僕にとって、そんな彼女の様子は驚きに値するものだった・・・。
・・・世間知らずでどこか抜けたところのある彼女の意外な一面に僕は驚くと共に、どこか彼女が自分と住む世界の異なる人間であるような思いに包まれ始めていた・・・。
・・・今にして思えば、それは自分の自信の無さの裏返しでしかないのだが・・・、若く愚かな僕はある意味彼女に裏切られたような鬱屈した気持ちに襲われていた・・・。
・・・まるで独り占め出来たかのように思っていた彼女の笑顔・・・。しかし、実はそうではないという現実を目の当たりにし僕の心は悪酔いも手伝って子供のようにいじけていたのかも知れない・・・。
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541 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:17:43 ID:GAmjrabH
彼らは酒も進み、ほとんど僕にお構い無しで内々の話に興じていた・・・。
上の空でそんな会話を聞く僕の目線の先には常に彼女が居た・・・。彼女が誰かに話しかけられる度に見せる笑顔を、僕はいたたまれない気持ちで見ていた・・・。
・・・嫉妬とも苛つきとも解らない負の感情に耐えられなくなった僕は、宴の輪からこっそりと抜け出し、自分のテントに戻った・・・。テントに入る時に、視界の片隅で彼女がこっちを見ているように見えたが、僕はそのままテントのファスナーを閉めた・・・。
僕は、嫌で嫌で堪らなかった・・・。自分自身の弱さに・・・。
彼女が悪くないのは知っていた・・・。
それなのに彼女に嫉妬の目を向け、心が内に篭る僕自身が許せなかった・・・。
・・・社交的で理知的な彼女・・・。反してあまりに弱い僕・・・。
なおさら彼女と僕とは釣り合うようには思えなかった・・・。
・・・夜明けと共にここを発とう・・・。ひとところに長く留まり過ぎたのかも知れない・・・。
テントの外の喧騒を聞きながら、僕は目を瞑った・・・。
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542 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:19:46 ID:GAmjrabH
鳥のさえずりと共に目を覚ました。太陽はまだ昇っていなかったが、東の空はうっすらと白み始めていた・・・。
テントの外には誰も居なかった・・・。僕は周囲に気が付かれぬよう、静かにテントを撤収する。
全ての荷物をパッキングし、愛車の待つ駐車場へ向かう・・・。
最後に振り返り、彼女のテントにさよならを呟くと、僕は開陽台キャンプ場から駐車場へと繋がる階段を下った・・・。
薄暗い駐車場で朝露にまみれたNinjaに荷物を積む。そして、スタータースイッチを押し、4気筒に火を入れた・・・。
静かにここを去りたかったのでチョークは引かなかった・・・。
Ninjaの静かなアイドリングが寂しく高台に響き渡っていた・・・。
そしてヘルメットを被ろうとしたその時だ・・・。
「いってしまうんですね・・・。」
背後からのその声に、僕は驚いて振り返った・・・。そこには彼女が立っていた・・・。
彼女は軽く息を切らしていた・・・。突然の事に、僕は立ち尽くす・・・。
そして彼女は僕のほうに歩み寄ってきた。
僕の目の前までやってきた彼女は、僕を見上げて言った・・・。その顔は怒っているようだった。
「黙って行ってしまうなんて、ヒドイじゃないですか・・・。」
僕は「あ、その・・・」と言い掛けると、彼女はすぐに笑顔に戻り笑いながら言った。
「ウソですよ!・・・なんか、黙って行ってしまうんじゃないかって気はしてましたから・・・。」
彼女は押し黙ったままの僕を無視して言葉を続ける。
「色々、お世話になっちゃってありがとうございました。私のせいでマスオさんを引き止めちゃって・・・」
いつものように、育ちのよさが伺える丁寧な言葉で礼を言う彼女。
しかし、突然そこから先の彼女の声が震え始めた・・・。
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544 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:20:39 ID:GAmjrabH
「・・・マスオさん・・・と・・・会えて・・・本当に良かった・・・です・・・」
彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、頬を伝って落ちた・・・。そして、涙を両手で拭いながら、彼女は呆然とする
僕の胸に飛び込んできた・・・。僕の胸元で声を押し殺して泣く彼女・・・。僕は突然の出来事にヘルメットを片手に持ち立ち尽くすだけだった・・・。
一分ほどのその時間が、永遠に思えた・・・。今、僕は彼女を抱きしめてあげる事が出来なかった事を後悔している・・・。
真っ赤になった瞳をこすりながら、彼女が再び顔を上げたとき、その顔には笑顔が戻っていた・・・。
そして、彼女はポケットから小さな包み紙を取り出し、僕の手を握りながら手渡した・・・。
川湯温泉の土産物店の紙袋だった・・・。開けて下さいという彼女の言葉に従う。中には小さなアイヌのニポポ人形のキーホルダーが入っていた・・・。
「私のこと、忘れないで下さいね!」
その時の涙目の彼女の笑顔を、僕は決して忘れることは無いだろう・・・。
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545 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:21:33 ID:GAmjrabH
・・・それが、僕の1984年の夏に体験した初恋の全てだ・・・。
今でも目を閉じれば、あの青春の時が開陽台を吹く爽やかな風の匂いと共に思い起こされる・・・。
・・・僕は、あまりに若く、青く、そして愚かだった・・・。そんな僕の弱さが、もしかしたら彼女を傷つけたのかも知れないと思うと、それは罪でもあろう・・・。
・・・その結末は、失恋という言葉を使う事すら躊躇してしまうような淡い物語・・・。
それでも僕は、あの夏の恋を忘れない・・・。
僕の部屋の僕の机の引き出しには、数十枚にも及ぶ青春時代の写真が入っている・・・。
セピア色に色褪せたそれらの写真は、妻も含めてほとんど家族に見せたことは無い・・・。
ヨンフォア時代にアナゴ君と共に撮ったオロロンラインでの写真を少し前に義弟に見せたくらいだろうか・・・。
それらの写真は、こんな僕にも輝ける青春時代が確かに存在した証であるが、その引き出しの中には鍵の掛かる
日記帳も入っており、その中にも数枚の写真が入っている・・・。
それは、人に見られたくないというよりも、自ら意識して封印してあると言ったほうが良いかもしれないが、それでも
心が傷ついたりした時に、時折開いて見るときがある・・・。
・・・その中に、一枚の写真がある・・・。丸メガネの若い男と、その男の左腕に嬉しそうにしがみ付くショートカットのやはり若い女性・・・。
・・・僕とタイコさんが北の大地で出会っていた確かな証・・・。
この写真を眺めるたびに、僕は自然と笑みが漏れ、そして心が少しだけチクリとする・・・。
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546 :魔 棲 雄 〜マスオ物語〜:2006/07/02(日) 14:23:29 ID:GAmjrabH
御承知の通り、現在の彼女と僕は『親戚』という非常に近い関係にある。あまりに近く・・・それ故にあまりに遠い存在・・・。
・・・僕は思う・・・。ノリスケ君は幸せ者だと・・・。
こう言ってはなんだが、彼だって特に才色兼備なわけではない。
しかし、彼のその物怖じせず大らかで細かい事を気にしない性格は、育ちが良く理知的で美しい彼女を前にして怖気づいてしまった自身を思い返すと、彼女と良く釣り合いが取れているのだろうと思う・・・。
あの夏の記憶はほろ苦いものだが、反面、幸せな家庭を築く彼女を側で見る事ができて嬉しく思う・・・。
・・・摩周湖を初見で見られた者は晩婚、もしくは出世しないというジンクス・・・。それを広義で捉えて「願いが叶わない」と
するならば、まさに当時の僕の想いはその通りとなった・・・。・・・果たして、彼女はどうだったのだろうか・・・。
・・・バックミラー越しに手を振る彼女の姿は、いつしか見えなくなった・・・。ヘルメットからほのかにシャンプーの香りがした・・・。
・・・初恋の残り香を引きずりながら、僕は再び旅を始めるのだった・・・。